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ア  嗚呼虎ヶ岳 青野山と青野山王権現 赤名峠 明木橋 悪谷の兵衛伝説 莇ヶ岳の呼名 あさご芸術の森美術館 安蔵寺山 尼子氏末裔の墓 天真名井 一升谷と石畳 出雲北山 揖宿神社 今和泉島津家屋敷跡 板堂峠・キンチヂミの清水 一の坂御建場跡(六軒茶屋跡) 今櫛山伝承 石城山神籠石 石城神社 石銀千畳敷 石銀集落跡 岩国城 岩国城本丸下の空堀 岩国弥山社 岩国行波の神舞 岩屋堂洞窟・岩屋堂岩陰遺跡 岩山城 板井谷のカツラ&たたら跡 上ヶ原妙見稲荷神社 宇江城城跡 宇佐八幡宮 遠藤小祠 黄檗宗東光寺 大久保岩見守墓 大神山神社奥宮 大釣井 大山峠 奥出雲町亀嵩 大澤田湿原 大歳神社 大森八幡神社 折敷畑山古戦場跡 帯掛明神と重り岩 
駕籠建場 春日山と春日大明神 悴坂駕籠建場跡 鹿背坂隧道 合戦沢(合戦小屋) 加藤武三之碑由来 御守岩台 上関城跡 苅尾山&掛津山の呼名由来 杵崎神社 木谷峡姫岩伝説等 貴布禰神社 久喜銀山跡 久喜製錬所跡 草摺りの滝 具志川城跡 降松神社由緒 玖波石鎚神社由緒 首切れ地蔵 首なし地蔵 熊野神社 久米島 久米の五枝のマツ 久米島の久米仙 久米島分屯基地 鞍掛合戦古戦場 黒柏鶏 黒滝山 神代駅 芸北八幡高原 華蔵寺由緒 高札場跡 神上神社 弘法寺由来 固完杉 小五郎山鉱山跡 後藤吾妻氏と離郷者望郷之碑 駒ヶ林 小松尾城跡 五里山呼名由来 五輪山由来 権現峠・権現神社
 サ 佐毘売山神社 西郷南洲翁逗留の家 佐々木高綱の等身地蔵 佐々並市御客屋跡 さねもりさま 猿田彦大神石碑 敷山城跡 山神社 下山林道 蛇龍伝説 城岩 成君寺 正八幡宮 書寫山 神光山八幡宮 神護寺跡 瑞泉寺 周防阿弥陀寺 周防春日神社 周防租生の柱松 周防三丘嶽城 石船山の磨崖仏 銭壺山  船通山神話伝承 千坊山由緒 須佐高山の磁石石 須佐ホルンフェルス 須佐法泉寺・黄帝社奉納船絵馬 蘇羅比古神社大杉
 タ 大将軍霧峯神社 大山石室 大慈母観音立像 大梅山通化寺 高佐手人麿神社 竹田城跡 瀧の水 多々良木ダム 立石城跡 田の神様 玉祖神社由来 玉祖神社樹林 玉峰山 淡海和尚 淡海道 智教寺天下墓 長寶寺 杖置地蔵 鶴ヶ城 津和野城跡 天神社由緒 天徳寺 殿敷 土用ダム 豊栄神社 
 ナ 猫山の由来 野見野 野原八幡神社 野呂山登山道歴史コース 
 ハ 萩城北の総門 畑の谷大滝 八畳岩 光峨眉山護国神社 比丘尼ヶ渕の伝説 日晩山 姫逃池 日晩峠 比婆山御陵 枚聞神社のクスノキ 日南瀬の石風呂 広・四日市街道 福山間歩 武家屋敷跡 普賢寺 ブッポウソウ 仏通寺 筆懸の松 布野眺め 防長経略 仏峠の賽の神 保慶の七不思議 本郷村の歴史 
 マ 磨崖和霊石地蔵 牧野富太郎歌碑  窓ヶ山の由来 御汗観世音菩薩 水分神社 三田尻御茶屋 道川城跡 御調八幡宮 三子山城跡 水上神社 深山の滝 夫婦岩山 室積のまちのなりたち 女亀山 女亀神社 毛利元就公歯廟 毛利讃岐守元政 森様社叢
矢滝城跡 矢筈城跡 山川漁港 山代一揆 指書の名号 吉水園 ヨズクハデ
 ラ 竜ヶ懸崖観音伝承 竜頭山昌谷寺 立雲峡 龍雲寺の仏像 龍源寺間歩 龍ヶ馬場 六社神社 六十六部廻国供養塔
 ワ 和田八幡宮の青面さん
 
上関城山
上関城は、南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海水軍の海城であった。この城は現愛媛県今治市宮窪を本拠とした能島水軍村上義顕がこの地に海関を設け、代々居城した。この地は瀬戸内海の交通上、西端の要衝である上関海峡という「関」を見張る上で絶好の立地条件であった。上関城はそうした機能と徴税権行使のため築城され、城兵は上関海峡を通る船から帆別銭や荷駄銭を徴収して免符を発行した。天文二十年(1551)、陶氏の廻船がこうした上関城の「掟」を無視し、将軍家献上の米を船に積み、現周防大島町浮島を本拠とする宇賀島水軍の警護の下、上関城を銃撃して通航した。城では早船をもって本拠に連絡し、三島村上水軍(能島・来島・因島)から兵船を発し、陶氏の船を安芸蒲刈の瀬戸で迎撃した。このため陶氏は村上水軍を上関城より追放し、この地を宇賀島水軍に守らせた。しかし能島の村上水軍は宇賀島水軍から上関城を奪回して、村上氏がこの城を居城とした。その後、天正十六年(1558)、豊臣秀吉の海賊禁止令により、能島・来島・因島の三島村上氏は海上支配権を失い、上関城は廃城されていったものと推定される。この城山は、平成十年度に発掘調査が行われ、その後公園として整備された。(上関教育委員会)
 
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御汗観世音菩薩の由来
そもそも「御汗観世音菩薩」とは、全ての人々を弘誓したく御石に御容姿を自現され、その御尊体のみ胸に霊滴とおぼしき潤いをいただかれておられたために、世々相伝えて「みあせ観世音菩薩」と呼称され、霊験は著しいものがあると伝えられております。その昔、ここ上関長島土盛山の中腹で、この山中は渓谷な洞門石壁で廻りは崖が高く、いつも紫雲がたなびき、夜毎に佛光が照りはえておりますので、村人達は唯々不思議に思いながら歳月を過ごしておりましたが、折しも正保三年(1647)弥生三月仲八日明け方のことでした。上関の在の中島屋太郎衛門という至って信仰心も篤く正直無我の人の夢枕と桂樹比丘(明関寺住職)の夢枕に「吾鹿水の幽渓に埋れて幾久し再び世にい出て衆生を利益せん」というお告げがありました。二人は大いに驚き、翌朝一緒に、彼の鹿水の渓に至り、探し求めて、観音様の御尊体を拝すことができ、御慈悲深い御容姿に歎声を溜め満感の涙が袂を湿しました。御尊体は、石壁の中にあって土で極度に汚れておられ、二人は、水があれば御潔めできるのだがと話しているうちに、不思議とそこに水溜りが湧きい出てその水で御潔めしましたが、充分といえず、もう少しの水をとお願いしましたところ、その隣に二ツ目、更に三ツ目の水が湧きい出、十二分に願いを果たすことができました。この三ツの水溜りは「三ツ川」の由来としてここから約百米登ったところに現存し昔のままで、大きくも、小さくも、ならない不思議さがあります。それ以来、村人達は、この渓谷を「観音の谷」と呼びました。御尊体は浄土宗阿弥陀寺に奉安置され毎年四月十七日、十八日の二日間、大祭が盛大裡に奉修されております。
野口雨情も参詣され、いみじくも次のように詠じております。
「もゆる想いを椿にそえて 乙女御汗観音様へ」と
御汗観世音菩薩御出現の地御汗台は、風光明媚、眺望絶佳で霊水の湧きい出ずる滝の音聞こえる奇岩境奥の院に、昭和三十一年四月、先住玉木真亮師や多くの信者連が相はかり御汗観世音菩薩出現の霊地に記念の堂宇を建立しようという議がまとまりまして、工事に取りかかり、夢も大きくふくらみ、信者の人々の心身の尊い奉仕活動が続きながら今のような信仰の場となり昭和四十年頃より毎月十七日の縁日には近隣所処から老若男女の参拝者が御縁をむすんでおられ、災難の危うきを救い、家内安全、無病息災、など願い事は必ず成就しないことなしといわれております。また、観世音菩薩の三十三身のみならず、不思議なことには、ここの石にも信仰心の篤い人々が手にすれば観世音菩薩の御容姿が現われい出て霊験あらたかでいい尽くすことはできないといわれております。 平成七年(1995)四月十七日 島田駅旅行クラブ  現地説明板より
竜頭山昌谷寺
室町時代(1400年代後半から1500年代前半)に開かれた曹洞宗永明寺の末寺。記録によると「永明寺末寺の門弟のための道場」とあり、永明寺二世の繁俊大和尚が晩年ここに住んで、吉賀地方を中心に修業道場として曹洞宗発展のために弟子の指導にあたったと考えられる。この寺の方丈の間の木戸に中国の故事で「二十四孝」の中の二つの絵が描かれている。一つは寒中に筍を掘る絵「孟宗」で、「孟宗は老いた母に食べさせるために、冬に筍を掘る孝行息子だった」という故事による。もう一つは老いた母に乳を与える絵「唐夫人(とうのぶじん)」で、「唐夫人は姑の長孫夫人が年老いて歯で噛めないので、乳を飲ませたりしてよく仕えた。長孫夫人は臨終に際し、その孝に対して『子孫は果報を受け栄えること限りなし』と言った」という故事による。この二つの彩色画は、天保13年(1842)に絵師臼井万石が描いたもので、今なお美しい色彩を放っている。  現地説明板より
折敷畑合戦 宮川甲斐守の陣地跡(折敷畑山の八合目付近)
広島湾岸地域から廿日市及び厳島を占領した毛利軍の討伐を命じられた、大内陶氏の武将宮川甲斐守は、天文23年(1554)6月初め、桜尾城を眼下に見下ろすこの辺りに陣地を構築し始めた。桜尾城には強敵毛利軍がいる。元就は桜尾城を本陣とし、桜尾城を守る七尾の砦と伝えられている丹渡尾城(たんどおじょう)、宗高尾城(むねたかおじょう)、谷宗尾城、越峠尾城(こいとうげおじょう)、藤掛尾城、笹尾城、岩戸尾城の守りを固め、更に大野門山城から小瀬、御庄(みしよう)辺りまでの軍事施設を徹底的に破壊して反撃に備えた。元就は、大内陶氏の進撃は沿岸経路と想定していたようだ。ところが、宮川甲斐守は桜尾城攻撃作戦で折敷畑山を選んだ。桜尾城を眼下に見下ろす折敷畑山頂に大きな陣地を築けば、毛利軍を強烈に威圧し、この陣地から桜尾城に向かって一直線に攻め下れば、いきなり桜尾城防衛網の内側に入り込むことになる。戦略的には最高の作戦である。毛利軍は意表を突かれたが全くひるむことなく、同年6月5日折敷畑山頂に向かって攻撃を開始した。一説には、元就の長男隆元率いる毛利軍本隊は陣地正面から、次男吉川元春軍は野貝原山側から、三男小早川隆景軍は御手洗川沿いに攻め上る、三方よりの進撃を行い果敢な激戦を展開したという。毛利軍を上回る大軍の宮川軍は着陣したばかりで、戦闘態勢の整わないうちに急襲されたので、宮川軍はたちまち総崩れとなり、大将の宮川甲斐守ぱ谷底に転落死した。この折敷畑合戦はわずか1日足らずの内に、毛利軍の圧倒的な勝利となった。この折敷畑合戦に会心の勝利を得た毛利氏は、翌年の厳島合戦にも快勝して、大内氏を滅ぼし周防、長門を領国化して、戦国大名へと成長していく。(平成23年3月 宮内地区コミュニティづくり協議会)
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鞍掛合戦古戦場
鞍掛山(240㍍)は戦国時代の古戦場である。弘治元年(1555)十月一日安芸国の大名毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢軍を滅ぼし防長二国に侵攻してきた最初の合戦が鞍掛合戦であった。大内氏の奉行三家老の雄玖珂盆地の領主であった食邑三万石鞍掛城主治部大輔杉隆泰は部下二千六百を率い十一月九日より毛利軍七千を迎え討ち壮烈な戦いを挑んだが多勢に無勢遂に十四日(十月廿七日説もある)部下の将兵千三百七十余と共にこの鞍掛山頂の砦をまくらに討死落城した。城主杉隆泰、父入道宗珊の墓は祥雲寺にあり部下将兵は山麓に三基の千人塚として合葬されている。 (岩国市)
 
防長経略背景
天文二十四年十月の厳島の戦いにより、毛利元就は大内軍の主力である陶晴賢軍を撃破し、その勢いをもって周防・長門両国の攻略を計画した。まず十月十二日に厳島から安芸・周防国境の小方に陣を移し、作戦を練った。大内軍は、本拠地山口に大内義長と内藤隆世の兵三千、そして山口までの防衛拠点として椙杜隆康の蓮華山城、杉宗珊・杉隆泰親子の鞍掛山城、江良賢宣・山崎興盛の須々万沼(周南市)、そして陶晴賢の居城で嫡男の陶長房が守る富田若山城(周南市)、右田隆量の右田ヶ岳城(防府市)などそれぞれの城に城兵が籠り、毛利軍を撃退する準備を整えていた。また、石見三本松城の吉見正頼を警戒する野上房忠の軍勢が長門渡川城(山口市阿東)に配置されていた。(ウィキペディアより)
調略と鞍掛城攻撃
元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。十月十八日に書状をもってあっけなく椙杜隆康は降伏、毛利氏に降った。蓮華山城に隣接していた鞍掛山城の杉隆泰もその報を受けると椙杜隆康同様に降伏した。しかしこの降伏した両名は普段より仲が悪く、椙杜隆康は杉隆泰の降伏が偽りであるという証拠を元就に差し出し(実際に降伏が偽りであったかどうかは不明)、ここに毛利軍と隆泰との関係は決裂した。十月九日より毛利軍七千(二万との説もある)が攻撃を開始し、杉軍は兵二千六百で迎え撃った。杉軍は、鞍掛城本丸に千、二の丸に八百、鞍掛山東部の谷津ケ原と市頭に四百ずつの隊で布陣したとされる。杉軍は善戦するも、十四日または二十七日未明に毛利軍が鞍掛城の搦め手より奇襲をかけて杉親子と城兵千三百(そのうち武士は八百人とされる)を討ち取り、落城させた。現在でもこの鞍掛城では、この戦いの際に焼けた米が出土する。(ウィキペディアより)
 
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保慶の七不思議
馬の蹄、矢穴、飛び石、烏帽子岩、せり岩、風穴、湯の段、岩屋観音など、この窪源明山に向かって登ると、民話、伝承、奇岩等先住民達の生活に係る不思議なものへの出会いが出来ます。春の青葉、秋の紅葉等々山径の森林浴も親しめます。所要時間約二時間、頂上源明山の展望も格別です。
一(馬の蹄) 昔馬に乗った武士が、後の世のしるしと言って岩に蹄の跡を二つ残したと云う。二(矢穴) 外的防御の巨岩の洞穴を矢穴と云う。源平の戦の時に、笛吹峠の敵を矢でこの穴から狙い打ったと云う。三(飛び石) 婦人が赤ん坊を抱いて岩の上に腰かけていると、突然大きな猪が飛び出してきた。婦人は、赤ん坊をしっかり抱いたまま向こうの岩の上に飛んで難を免れた。四(烏帽子岩) 川の中に、くそ石という黒い大岩がある。神主の烏帽子そっくりの形で正しく座っていたが終戦後大水のため傾いた。五(せり岩) 高さ二間、幅五間くらいもある大岩で、よこしまな心の持主は、はさまれると云う。六(風穴) 四季を通じて快適な風が吹く、石の割れ目はとても深いようである。七(湯の段) 昔は、ここから湯が出たと云う。下着を洗ったため、温泉の神は道後へ移転したと云う。他に鷲の巣、保慶岩屋観音等、また向かいに三っ石神社(宮里様)がある。(大島町観光協会)
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畑の谷大滝
森林浴を楽しみながら屈折した荒谷林道を大杉方面に上って行くと左側下方に「畑の谷大滝」があります。この大滝に行くには、荒谷林道左側下方の急な山道を100m位下りると谷川にたどり着きます。谷筋を約10m上ると左側に巨大な屏風岩がそびえ立ち、そして、すぐ上方に、「畑の谷大滝」があります。年中豊富な谷水が滝となって、約20m上方より流れ夏場には涼を楽しみ避暑を満喫することができます。大滝の右手に巨岩が覆いかぶさる光景は神秘的で、合掌したくなるような雰囲気をかもし出してくれます。上り降りには十分気をつけて、怪我の無いように注意してください。
瀧の水
荒谷林道は荒谷川沿いに付けられていますが、上流に行くと荒谷川に橋が架かっているところがあります。その右手方向に谷水が流れているところがあり、その近くに「瀧の水」と言う名水の出るところがありましたが、平成11年6月29日の土石流災害で、地形が一変し、今は埋められて道路となっています。昔は、川坂~下河内~荒谷河内峠~白川への主要道で、「瀧の水」のところで、これから河内峠を登り白川・水内方面に行く人は、冷たい美味しい瀧水を飲み、喉を潤し一休みし元気をつけていました。また、急な山道の河内峠を下りてきた人も、「瀧の水」のところで名水を飲み、一休みしてから、八幡村の方へ下っていました。明治40年頃までは、主要道で人や馬の行き交いの多いところでしたが、八幡川沿いに県道ができてからは、山林の手入れや材木の伐採・運搬する人、大杉地区の生活道として使われるだけになりました。この「瀧の水」の近くには、中国自然歩道の大きな案内板があり、今は、登山のルートにもなっています。(以上2件、河内地区まちづくり協議会・河内公民館)
 
窓ヶ山の由来
窓ヶ山は、岩と岩が重なり合い窓の形をしているので「窓山」と名付けられたと伝える説と、険阻なため猟師でも道を惑うほどなので、「惑山」と云われていたが、惑うの字は悪いからと「窓」にしたと云う説があります。河内では昔から窓山と言われています。遠くを眺めると、四国方面や広島方面。北西方面にかけては、大峯山などが観望されます。また、窓ヶ山東峰の山頂に八畳岩という巨岩があり、ここからは眺望もよく瀬戸内海を見渡すことができます。
首なし地蔵
古来、花嫁の腰が据わることを願って、婚儀の席にお地蔵さんを据える風習がありました。若者たちはなるべく遠くにあるお地蔵さんを運び、婚儀の家の縁側に据えました。家の人に見つかると、家の中に引き入れられて酒を飲まされ、持参したお地蔵さんを、後日、元の所へ返さなければならないことになっていました。しかし、見つからなければ、花婿花嫁が元のところに返すことになっていました。窓ヶ山のお地蔵さんは、急な山から転がして下ろしていたので、首が取れ「首なし地蔵」となりました。
 
遠藤小祠
昭和19年(1944)10月19日、地元で秋祭りが開かれていました。その最中に突如窓ヶ山の方から大きな音が聞こえたので、窓ヶ山に登って探したところ、山頂から30m位下がった山腹に零式戦闘機(練習機)が激突していました。その日は、雨が降り、霧が出て視界が悪かったので操縦を誤ったものと思われます。昭和22年(1947)春、この事故で没された陸軍曹長遠藤幸夫氏を偲んで、地元の方が、墜落場所近くに遠藤小祠を建てました。
 
仏峠の賽の神(幸神社)
仏峠は、窓ヶ山(窓山)から向山(高山)に通じる尾根の最低部の山越え路で、その頂点近くに「賽の神(幸神社)」があり、自然石(石神)と松の古木がありましたが、松くい虫により枯れて、今は切株が残っています。平成になって、切株の近くにお地蔵さんが置かれました。仏峠は、上小深川(かみこぶかわ)を通り、奥畑の桜ヶ峠を通り、戸山から水内に通じる、昔の主要街道で、遠くの瀬戸内海を眺めたりして一休みしていたそうです。(以上4件、緑の散策道づくり研究会・佐伯区区政振興課・河内公民館・河内地区社会福祉協議会)
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大梅山通化寺(だいばさんつうけいじ)
807年(大同2年)の創建と伝えられる黄檗宗の古刹で、本尊は観世音菩薩。幕末には遊撃隊陣営が置かれ、遺跡や遺品が残されている。境内には、自然石をたくみに調和させて築造された、雪舟作と言われている庭園があり、桜やツツジなど花に彩られる。(通化寺境内の案内板より)
史跡遊撃軍陣営遺跡
遊撃軍は、文久三年十月、蛤御門(はまぐりもん)の戦で壮烈な戦死をした来嶋又兵衛(きしままたへえ)が藩命により三田尻で組織、狙撃隊(そげきたい)など十三の諸隊に、のち周東町ゆかりの維新団も編入され、奇兵隊と同様維新回天の原動力として活躍。周東町へは、慶応元年三月対幕府戦に備えて須々万村から移駐、通化寺に陣営を置き明治三年三月の解散時まで駐屯、この間、四境の役、鳥羽伏見の戦、奥州倒幕の役等に参加明治元年の明治天皇東京行幸の際はその供奉を命じられています。通化寺に来たときの兵員は二百五十人、総督は高杉晋作でしたが、藩府は間もなく、兵員三百三十人に増員、毛利幾之進を総督、石川小五郎を副総督に任じています。四境の役では、遊撃軍は芸州方面防御の主力となり、慶応二年六月小瀬川に出陣、小方・玖波・大野の幕軍を撃破、廿日市に迫らんとしたとき休戦となり、翌三年二月に凱旋この役の勝利こそ、まさに近代日本の幕明けを象徴するものでした。(通化寺境内の掲示版)
大将軍霧峯神社 祭神⇒木花咲耶姫命、天忍日之命、天櫛津之命
農耕民族である日本人は、先祖の霊魂はむらの周辺の山に住み里人を守っていると信じ、春には歳神様として山から里にお迎えし田の神として尊崇していました。大将軍山は、由宇をはじめ近隣の人々からそのように御山全体を神として信仰されていました。山頂から麓まで登拝口として南町、鴨の谷、吉岡、槇の尾、岡田に数多くの道標(丁塚)が見られます。大将軍霧峯神社の創建については数説ありますが、総合すると、永正六年(1500)周防国太守大内氏と伊予の豪族河野氏が大島群島の領有をめぐって対立、大島を占領した河野氏を撃つため、大内軍は敵情を視察したが、濃霧のため目的を達せず、その時一心に八将軍の一つである大将軍を祈念したところ忽ち霧が晴れ、敵情を知ることを得、船をすすめて河野軍を破ることができ、大内氏は戦後、この山に大将軍を祀り、神の加護を謝したと云います。またこの山の山容は、瀬戸内海を航行する船の目印(山あて)となることから、近世近代を通じ船関係者の尊崇するところとなり、遠く瀬戸内各地、北九州方面などからも多数の参拝者があったことが寄進塚によってうかがわれます。大祭の日(3月16日)から由宇地方に春が来るといわれ、農作業の目安にされています。(平成5年3月 岩国市教育委員会)
 
銭壺山
当山は、東は安芸灘に面し、北西は由宇川沿いの平地、南は大畠・滝川の山すそに囲まれた山塊の最高峰で、高さは540.1㍍です。古くから由宇、神代、日積の境界点となり、昭和三十年(1955)神代村神東地区との合併で柳井市との境界点となりました。山名については、付近に不審火が見られるので調べてみると銭壺が出てきたとか、海賊の埋めた銭壺があったなど由来は明確ではありません。十楽寺縁起によると、平安時代前期の弘仁年間、山上に鳩子峰の坊という一宇があって、弘法大師が書かれたといわれる三尊の絵像があり、平安時代後期の長徳年間に恵心という人が木像を刻み安置しました。その後、鎌倉時代宝治年間、一体は神代光明寺へ、一体は日積十楽寺へ、一体は由宇明楽寺へと降ろされ堂を建立したとあります。また、慶応元年(1865)四境戦争の時に岩国藩由宇組民兵(忠果団、のちに銭山保と改める)の駐屯地となり、明治三年(1870)までこの地で警備につきました。山頂より北西へ少し下りたあたりに権坊藪というところがあり、江戸時代末期頃まで修行僧が住んでいたということです。井戸や礎石の跡、数基の墓石などが残っています。また、山の名を別名「目舞いヶ岡」とも言い、よく晴れた日には遠く四国の石鎚山を望むことができます。(平成十年三月 岩国市教育委員会)
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神代駅
明治三十年(1897)山陽鉄道が開通しましたが、神代には駅がなく地区の人々は由宇駅か大畠駅を利用していました。大正六年(1917)に単線運転の信号所が出来て一日に一、二本列車が停まるようになりました。大正十年(1921)七月『神代駅設置期成同盟』が結成され、年々引きつがれてきました。昭和十九年(1944)山陽本線複線工事着工を期に、地区民あげて猛運動を展開し、七月三十日、悲願は実を結び、いわゆる「請願駅、神代」の新設起工式が行われました。地区民も拠金・奉仕作業(神東小学校の児童も材木運搬)をし、完成しました。このようにして、同年十月十日完成、翌十一日、駅員十名で開業されました。昭和六十二年(1987)日本国有鉄道は民営化され【JR】となり、日勤一人勤務が続きましたが、平成元年(1989)無人駅となりました。(平成九年三月 岩国市教育委員会)
周防租生の柱松 国指定重要無形民俗文化財(指定日:平成元年三月二十日)
柱松行事は、夏の“火祭り”で、藩政中期の享保十九年(1734)に、始められたとの記述が、新宮神社記に見られ、以来、租生の三本松と言われる。中村、落合、山田の三地区とも、中断することなく、二百五十有余年伝承行事として毎年催している。これらのことは全国的にも珍しいことで、文化遺産であり、地域づくりに寄与する面も見逃せない。柱松は、高さ二〇メートル前後の、胴木の先に、はぎのこ、かんな屑などを入れた、朝顔型の鉢をのせ大縄を三方に張って、昔ながらの構えにしておく。夜になって、松明(たいまつ)を投げ入れ、的中させる行事である。腕自慢によって、観衆を沸かせるが、的中する(打つ)と、夜空を焦がす、この行事ならではの景観は格別である。そして独特の太鼓の音が山あいに響き渡る。時代は推移するが、ふるさとの文化財として、永く後世に伝えたいものである。(周東町教育委員会・租生柱松行事保存会)
長寶寺由緒
聖武天皇の御世天平年中(729)に諸国遊行の行基菩薩が山容に補陀落浄土の顕現を感じて、聖境の一隅に草庵を結び自ら一刀三礼に観音像を刻んで泰安したのが創まりであったと伝えられている。その後、霊像の御加護に浴した近郷の人達の崇敬も深まり、近くの二井寺山と共に観音信仰の一大聖地に発展したという。現存する古文書も多く、大同二年(807)仁治元年(1240)嘉元元年(1303)等の寺領に関する文章の他、観音堂の厨子の扉には徳治二年十月(1307)の銘があり、往時を偲ぶ貴重な資料になっている。こうした史記から当寺の創建は鎌倉期以前に建立された密教寺院であったが、南北朝の頃に普明国師を中興開山に臨済宗に改め寺運を再興し、領主の庇護のもとに寺領を付与された。ただし、元禄八年(1695)の寺社紀には慶長十六年(1611)野火に遭って堂舎が焼失したことをとどめ、慶主座のとき岩国城主吉川広達に願い出て元禄十二年(1699)高台の聖地から現在地に伽藍を移して再建した(周東町史)。観音像は秘仏で三十三年に一度の御開帳が行われていたが、明治より七年に一度となった、一方、この島田川流域はもっとも早くから開けたところで、西暦前千年、三千五百年、千五百年、五百年と推定される遺跡が発掘されている。風土記に依れば神武天皇東征に先立つこと数年前に、皇兄三毛入野尊の本州発信の要地で、木村岩熊山に天下り給い天瞼高照寺山系を根拠とされ周防、伊予、芸備海岸を守られたという。三毛入野尊の終焉の地と伝えられ、岩熊八幡宮参道西側に御陵と称する古墳がある。(長宝寺ホームページより)
 
莇ヶ岳の呼名
二万五千分の一図には莇ヶ岳(アダミガダケ)とルビが振ってあるが、ザ→ダ転訛の事例はこの地方には多く、アザミが正しい。この山の北方、地図には高岳山とあるがこれも高崎山が正しい。タカザキがタカダキに転訛したものである。現に椛谷川流域では高崎山の呼称が使われている。『防長地下上申』大潮村の項に〈あさミ山〉〈あざみ山〉〈あさみ嶽〉が使われ、『同』大潮村絵図には〈あさみ嶽〉と記されている。『防長風土注進案』大潮村に〈莇山〉が見える。島根県側の資料は少なく、尾崎太左衛門豊昌『吉賀記』(文化年間)の椛谷村の項に〈アサミカタケ〉とあるのが唯一の資料である。資料を見た限りではこの山の呼称は、アサミ→アザミ→アダミ、と変わってきたと思われる。〈アサミ〉の語意は不明であるが、この山の東側に懸崖があるので〈アザミガ懸崖〉という懸崖の呼称であったと思われる。付会と言われるかもしれないが、〈アサミガ懸崖〉は〈朝見ガ懸崖〉で〈朝日があたったときによく見える懸崖〉という単純なものかも知れぬ。それにしても山頂にある三等三角点の標示面が南を向かず朝日の登る東面を向いているのはどうしたものだろう。(桑原良敏「西中国山地」(1982)203頁)
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矢滝城跡
戦国時代に石見銀山の支配権をめぐって激しい争奪戦があったが、その争奪戦の拠点のひとつが矢滝城で、遅くとも享禄元年(1528)には築城されていたと思われる。矢滝城跡の北側には石見銀山から温泉津港に至る銀山街道(温泉津⇔沖泊)があり、さらにその北側には矢筈城跡がある。銀山街道をはさむ形で築かれた矢滝城と矢筈城が一対となって銀山防衛、交通路掌握の機能を担っていた。山頂部の北側曲輪群には枡形をした入口(虎口)や竪堀、南側曲輪群には堀切などが残っている。
 
矢筈城跡・冠地区
矢筈城跡は石見銀山から西2.5㎞にあり、標高480mの山頂部を利用した16世紀の山城である。東側の尾根伝いには石見銀山街道温泉津沖泊道が通る降路坂があり、さらに進むと矢滝城跡がある。弘治3年(1557)頃に、毛利氏が銀山の山吹城を押えて尼子氏を攻撃し、矢筈城と三久須城(祖式町)と三子山城(温泉津町)から撤退させたという記録がある。
 
大久保岩見守墓
大森の代官所跡から銀山川に沿って10分ほど歩き、川を渡って左手の竹薮を分け入った大安寺跡に、初代大森銀山奉行大久保長安の墓碑がある。長安は慶長六年(1601)この地に着任し、銀山領の検地をはじめ、道路、町並みの整備を進め、間歩(坑道)の発掘により銀の生産高を飛躍的に増加させた。また、配下にあった山師安原伝兵衛発掘の釜屋間歩は、年間三千六百貫を上納したと云われる。長安は後に佐渡、伊豆など全国の金銀山総奉行となり、武州滝山三万石に封じられた。慶長十八年(1613)駿河で病死したが、家康は長安に不正があったとして葬儀を中止し、七人の子どもを死罪とし、財産をことごとく没収した。寛政六年(1794)、事績を顕彰して紀功碑と五輪墓が菩提寺である大安寺に建てられた。大安寺の建物は現在残っていない。
豊栄神社(とよさかじんじゃ)
祭神は戦国時代石見銀山を十四年間領有した安芸国郡山城主毛利元就。元就は生前、自分の姿を木像に仕立てて山吹城内に安置させたが元亀三年(1571)六月、元就の孫輝元が戦火を危惧して城下の下河原へ洞春山長安寺(曹洞宗)を建立して木像を移し安置した。洞春とは毛利元就の法号で、元就のことを洞春公とも呼んでいた。慶長五年(1600)九月関ヶ原の役後、石見銀山は徳川氏が直接支配することとなり、長安寺は荒廃した。慶応二年(1866)七月十四日に長州軍第三大隊二番中隊127名が大森に本陣を置いた。長安寺に元就の木像が安置してあるのを知った隊士たちは浄財を募り工を起こして整備した。本殿、拝殿、随身門、土塀を造営し、鳥居を建て、境内には灯籠17基、用水溜2槽、手水鉢1基、狛犬1対をいずれも石造で献納した。これらの石造には中隊司令祖式信頼ら127名の隊士名が刻まれており、銀山史を知るうえで大変貴重である。
福神山間歩
この間歩は、採掘にあたった山師個人が経営した「自分山」であるが、一時期、代官川崎市之進(1767~78)のころには、代官所直営の「御直山」になったこともあった。「御直山」は天保十五年(1844)には23か所まで増えるが、「自分山」は享保十四年(1730)に55か所もあったものが、天保十五年には9か所になってしまう。石見銀山には、主な鉱脈が32本あったと伝えられており、そこから岩盤の亀裂に沿って30㎝前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びていた。この間歩には坑口が3か所あって、上段の坑は空気抜き坑、下段の2坑は中でつながり、説明板のある道路の下2mほどのところを通って銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に掘り進んだと伝えられ、「仙ノ山」の逆方向に向かって坑口が開いている珍しい間歩である。
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佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ)
さひめ山とは、三瓶山の古名。神亀三年(726)に朝廷の命令で、三瓶山に改名させられたとされる。三瓶山は、古代出雲や物部氏に関係が深い山とされている。佐比売山という漢字を使う神社も含めて、「さひめやま」と称する神社は大田市周辺に七社、益田市に一社ある。また、物部神社(大田市)の境内末社である一瓶社にも佐比売山三瓶大明神が祀られている。 「さひめ」の『さ』は穀物霊や、鉄を表しているとの説がある。別名は「山神社」といい、鉱夫や里人からは「山神(さんじん)さん」と呼ばれていた。当神社は、元々、金山姫・埴山姫・木花咲耶姫の三女神を祭った姫山神社であったが、永享六年(1434)室町幕府第六代将軍足利義正の命で、領主の大内氏が、石見国美濃郡益田村(現在の益田市)から金山彦命を勧請して、同時に大山祇命も合祀し、五社大権現と称したという説と、領主の大内氏によって大永年間に建立されたとの説がある。石見銀山の坑道の一つである龍源寺間歩の出口の約200m東に位置する。東南方向に100段の石段を上がると、巨石の上に社殿が鎮座している。石段に向かって左の谷を出土谷(だしつちだに)、右の谷を昆布山谷と言い、龍源寺間歩出口のある場所を含めた、川の流れる背後を栃畑谷という。拝殿の重層屋根は天領の神社である格式を示しているという。 境内から北方向に要害山(ようがいさん)の山吹城跡(やまぶきじょうし)が望まれる。
 
石銀千畳敷
仙ノ山山頂の南東、標高470mに位置し、平成五年(1993)から平成七年(1995)まで林道工事に先立って500m2が発掘調査された。テラス(平坦地)の中央に、南北方向に幅約2mの道があり、道をはさんだ両側で建物の礎石が発見された。建物の内部には、炉跡、石を積んで築いた土坑(どこう)などがあり、銀製錬作業を示す羽口や製錬工程で捨てられたカラミが出土している。西側のテラスには坑口があり、鉱石の採掘場所に接して製錬所が建つことなど、山頂部の銀生産と生活の様子が初めて明らかにされた場所である。昔鉛のことを石銀(いしがね)と呼んでいた。精錬には鉛が利用され、この地が銀製錬場所であったことから名付けられたと想像できる。
 
石銀集落跡
仙ノ山山頂に広がっている一帯の平坦地群は、「石銀」、「石銀千畳敷」、「石銀藤田」という地名が残り、かつて銀製錬の町があった。発掘調査によって、谷の中央を幅2mの道が走り、道に面して建物が立ち並んでいたことが明らかとなる。建物の時代は、出土した陶磁器の年代から江戸時代前期と推定される。建物の間口(道に面した部分)は幅広く作られており、建物内部には鉱石を粉にする要石(かなめいし)、粉になった鉱石を比重選鉱(ひじゅうせんこう)する施設、地面を掘りくぼめて作られた製錬炉が確認された。製錬炉は各々の建物に作られており、直径約20㎝~90㎝と大きさは不揃いである。建物跡では生活用具も出土しており、職住近接の町が形成されていたようである。№1間歩手前では、16世紀代の地層の中から灰吹き精錬用の鉄鍋が発見された。また、発掘調査の成果としてその他に、建物が存在していた遺構の面が9面あることや、建物基礎の部分である礎石(そせき)の上に柱や壁土が残ったままの状態で発見されるなど、銀山最盛期の町が地下に眠っていることが分かった。(以上6件石見銀山観光パンフレットより)
熊野神社略記 祭神:伊邪那美神 相殿神:伊邪那岐神、天照皇大神、大国主神、須佐之男神
境内神社 二宮神社(祭神:速玉男神)、三宮神社(祭神:黄泉事解男神)、金蔵神社(祭神:金山彦神)、三宝荒神社(祭神:須佐之男神)、牛馬荒神社(祭神:大山祇神)
古事記に「故、其の神避りし伊邪那美神は出雲国と伯伎国との堺、比婆の山に葬りき」とある比婆山(命山、美古登山)を伊邪那美神の御陵と仰ぎ奥院という。当社はその南西面参道の遥拝所にあたる。社伝に「創建・不詳、和銅六年(713)までは比婆大神社と称し、嘉祥元年(848)社号を熊野神社と称す」とあり。その後遥かに星霜を経て、文亀二年(1502)奴可郡西条保久里村大檀那源親盛社殿造立、永正十五年(1518)大檀那源尚盛社殿造立、天正四年(1576)保久里村大檀那源朝臣智盛社殿再興の棟札三枚が現存している。明治期に入り官幣大社に昇格運動起り内務省に請願。大正十三年第四十六回帝国議会において「比婆山熊野神社昇格に関する建議案」採択。昭和十四年第七十四回帝国議会において「備後比婆山に伊邪那美神」を奉祀する官幣大社建立に関する請願案」採択。やがて時局大変転して今に至る。広大な神域の百株を超える巨杉群叢は、森厳な古社の風致を構成し、内十一本の老杉は広島県天然記念物に指定
(昭和27年)
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磐境(いわさか)
磐境は、巨石に霊があると信じられていた古代の祭祀を行う場所のことで、奈良時代天平五年(733)に熊野神社の前称である比婆大神社が創建されるまで、比婆山御陵の祭儀がこの場所で行われていたと伝えられている。高さ約5m、周囲約23mで、そばの大杉の根本にある祠は、もとは岩の上に祀られていた。
鳥尾の滝(ちょうおのたき)
伯耆の鳥上山(船通山)に対して比婆山を鳥尾の峰といい、鳥尾の峰に対してこの滝を鳥尾の滝と呼ぶ。30m余の高さから落下する様から尾長鳥の尾を連想することもできる。別名「那智の滝」とも言われる。(以上境内の掲示版より)境内の掲示版より
 
板井谷のカツラ
根回り周囲3.3m、胸高幹囲2.7m、樹高約2.3m、枝張り各方面に6~7m、主幹は地上1.4mあたりで根元幹囲2.2m、1.4mの2支幹に分れる。カツラは雌雄異株の落葉高木で、北海道から九州の山地に分布し、主として渓畔に生える。対生する心臓形の葉は芳香があり、秋には美しく黄葉する。本件のカツラはそれほどの大木ではないが、付近に「板井谷たたら跡」が存在し、鑪の守護神である金屋子神とのかかわりから民俗学的意義が大きい。金屋子神は、もと播磨の岩鍋(兵庫県宍粟郡千種町岩野辺)で鉄器を作っていたが、製鉄の土地を求めて、白鷺に乗って出雲比田(島根県能義郡広瀬町西比田)に至り、そこに生えていたカツラの木を伝って降臨した。そして村人の協力を得ていくつかの鑪を築き、製鉄の技術をこの地方に広めたと伝えられている。この伝承からカツラは鑪の神木とされ、中国地方の各地にある金屋子神社には、ときどきカツラの木が植えられている。(平成18年12月 庄原市教育委員会)
 
猫山の由来
その昔、この山に猫に似た石があり、それを持っていると鼠が暴れないという伝説(国郡志郡辻書出帳)から名が付いたと云われる。(中略) 全山超塩基性カンラン岩体で、地表部はほとんど蛇紋岩化しており学術的価値は高い。中国新聞社(1980)「リュックかついで広島の山歩き 136頁」
「芸藩通志」には「猫山 三坂村にあり、麓は、小奴可、高尾、小鳥原(ひととばら)の数村に亘る」とあるに過ぎないが、「西備名区」は「猫山 此山高き事五十余町、周廻三里なり。伯州大山を眼下に見る絶景なり。里諺に云、米皮俵を背おふて一日の中に三度廻り猫の真似をすれば、山中の石悉く化して猫となる。よって山に名つくと云」という。この記録から猫山は伯耆大山を眼下に見下ろすほど地域住民にとっては大きく感じていた山であり、三里は周囲三里、また猫山は全山が化け猫の山で米を食い荒らす鼠に悩まされていた農民を守る猫神民間信仰の山であったことが推測される。(中島篤巳(1998)「広島県百名山 312頁」)
小五郎山鉱山跡
小五郎山は、古い露天掘りやタヌキ掘りなどが見られ、(谷をえぐり取られた跡やここにタヌキ掘りの跡が九つ在りましたが一つ残して、今はつぶれています)またこの地で鉱石を精錬した跡もみられます。古い書物や神社の起こりを示す記録、そしてこの地に伝わる物語とか古老の話から、考察しますと次のとおりです。
一、 最も古い時代の寺床について、古い本に「寺床山は大変高い山ですが大昔に精舎の家がありました」と記しています。精舎は、仏教語ですが、もとはインドの言葉で精錬を表すことから、大昔、この山では、修験僧による鉱石採掘精錬が行われていたことを物語っています。
二、 河津の「崎所(さきのせ)神社縁起」には、「炎を巻き上げる馬(精錬所)の噂を天皇が聞き、召し出せと言っても惜しむので佐伯氏重の子供小五郎は召し取られ誅されました。保元元年(1156)の出来事です」とあり、平安時代の鉱山のことでした。その後、この山はいつの間にか宇佐ヶ岳から小五郎山と呼ばれるようになりました。
三、 『向峠剣霊大明神略縁記』に、「讃井左馬助吉兼は弓で、小五郎山に通う大蛇を射殺すそのあと (坑道)今もはっきりわかります。享保三年(1531)のことでした」この延記録から室町時代に採鉱が行われていたことを物語っています。
四、 「化け猫物語」「讃井氏は、小五郎山に3日間の猟に出かけましたが(精錬の時間)ある晩、使用人に化けた飼い猫が登って来て、「奥さんが急病です。すぐ御帰りを」と言って主人を連れ出す…」前項と同時代。
五、 大正五年(1917)十七歳になった向峠の若者は、ここから採掘された小石くらいの鉱石をカマスに入れて背負い眼下の金山谷集落の大屋敷に運びました。そこで精錬された銅は「たかね」と記された鋳型で出来上がったインゴットを、馬で津和野街道を廿日市経由、船で大阪に運びました。
※この鉱山跡地や登山道を、数年かけてボランティアで整備された「小五郎開拓団」の熱意に心より敬意を表すものです。 (錦川観光協会 文責 恵本洋嗣 鉱山跡にたてられた掲示板より)
 
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春日山と春日大明神
春日山は標高九八九.二㍍(三等三角点)。益田市にあって、美都町(都茂)と匹見町(矢尾、下道川)にまたがり、西中国山地の主峰・恐羅漢山の西に急峻な匹見川を隔てて対峙している秀峰である。石田春葎著「石見八重葎」(一八一六年・文化一三年)によると、昔は〈神出ヶ嶽〉ともいい、「昔より此の山に登りたる人を聞かず」とあり、長く女人禁制の山として霊山視されていた。山頂に立つ小祠は、矢尾の住人、桐田秀雄氏(昭和四十九年一月十三日八十一才で没)が昭和二十八年にその建立を発心し、都茂や矢尾の信仰厚き人々に呼びかけて、翌二十九年に建立されたものである。その心は、山里の恵み豊かな自然に感謝し、里諸人の健康で幸せな暮らしを祈願することにあり、祀る神は奈良の春日大社に願い詣でて分神を許され、社を〈春日大明神〉とした。社の建造は、重い土台の石や御堂を背負って急勾配の径を頂上まで運び上げるだけでも大変であったが、熱心な人たちの協力によって、その年の夏(六月末日)に完成をみた。毎年の祭日は、八月五日に決められ、第一回の祭事を昭和二十九年八月五日に都茂の神職原屋稔氏に願って執り行い、山頂には八十人の善男善女が参拝して賑わった。ふる里の守護神〈春日大明神〉のお祭りに集う人々は年々増え、地元をはじめ、県内や山口、広島からもたくさんの登山者が登ってきて、ふる里の山や自然を語り合う一大イベントになっている。祭りの楽しみは、奉納されている石見神楽(近年は都茂の子供神楽)と匹見の里人が奉仕でふるまう素朴な味の角寿司。春日山の頂から発する太鼓の響きが、盛夏の青紫に光る西中国山地の峰々にこだましていくさまは、太古の昔にかえったような不思議な山の精をかんじさせる…ふる里に春日の山がある限り、八月五日の祭りは守り続けたし。 
 春日山の神よ わがふる里の豊かな自然と 安らかな暮らしを永久に守りたまえ
 平成二十年四月十五日 記(文 田中幾太郎)  春日神宮世話人代表 桐田登  (山頂の掲示版より)
杖置地蔵尊由来
羅漢山中には延暦の頃より多くの地蔵尊が祭られて居て、之は地方の人々の苦難を救済する目的で民間信仰の中心とされて多くの人々の強い信仰を得て居たのであります。其の中の一体が野田ヶ原峠に鎮座される杖置地蔵尊であります。此の野田ヶ原峠は中国山地の横断道として安藝廿日市市中道、また周防本郷秋中方面より此の峠を越えて石州津和野方面に通ずる津和野街道の最大の峠で、廿日市を経て阪神四国方面に通じる要所でも有り、また難所でもありました。人々はこの峠を登りつめると、道の側に有った地蔵尊に自分の使った杖を御供えして旅の無事を感謝しました。また、足や腰の難病息災を祈願した霊験あらたかな地蔵尊として親しまれ、何時の時代からか杖置地蔵尊と言って多くの人々の信仰を得て居ます。今の度、此の地蔵尊事が宮島大聖院を経て京都真言宗総本山御室派仁和寺吉田裕信総長の耳に達し、現地の地蔵尊を視察され、此の杖置地蔵尊は誠に由緒有るものと判定され、改めて本地蔵尊を道路側に移し、本堂を建設し、開眼大供養を総長を初め三家寺の御住職が昭和六十三年五月二十二日新本堂の前にて大供養を相営み、本地蔵尊を信奉する者一同誠に感激し、盛大に行われた大供養に依り、御功徳を得たので有ります。 以上  昭和六十三年六月吉日 杖置地蔵尊奉賛会 (杖置地蔵尊横の掲示版より)
佐々木高綱の等身地蔵
宇治川の先陣争い以来の功によって、建久四年(1193)山陰道七ヶ国の守護として赴任の途中大病にかかり、大山寺の本尊である地蔵菩薩に祈ったところ病が全治したので、等身の地蔵を寄進したと伝えられるが、寛政八年(1798)焼失し、嘉永元年(1848)田中氏により石で再建されたものである。 (現地看板より)
 
石室と地蔵ヶ池・梵字ヶ池 
この石室は、大正九年(1920)に地元の人々の奉仕によって夏山登山道が整備された翌年に、避難用としてつくられました。当時の貨幣で800円の経費であったと言われています。左後方にある池は、上が地蔵ヶ池、下が梵字ヶ池と呼ばれ、古くから「弥山禅定」という行事が行われた聖地でした。毎年、役僧二人と先導者三人がこの池まで登り、経筒に写経を納め、ヒトツバヨモギ、キャラボクの枝を採り閼伽桶(仏様にそなえる水を入れる桶)に池の水をくんで下山しました。閼伽水は仏様にそなえられ、ヨモギは薬草として信者に分け与えられました。(現在では「もひとり神事」という行事として7月14日夕方から15日早朝にかけて行われています) 鳥取県・環境省 (現地看板より)
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大神山神社(おおがみやまじんじゃ) 
式内社、伯耆国二宮で、旧社格は国幣小社。伯耆大山山麓(米子市)の本社と山腹(西伯郡大山町)の奥宮とがある。奥宮の本殿・幣殿・拝殿および末社下山神社本殿・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。本社は大穴牟遅神、奥宮は大己貴命を祀るとしている。どちらも大国主神の別名である。元は伯耆大山(別名 大神岳)の麓に鎮座し、その神を祀るものであった。伯耆大山は、平安時代には修県道場として著名な山となっていた。当社は智明権現と称し、地蔵菩薩を本地仏とした。『勝見名跡誌』には伯耆大山の智明大権現と因幡・鷲峰山の鷲岸大明神が仲が悪く戦をしたとの伝承が載っている。元弘三年(1333)、隠岐を脱出した後醍醐天皇が当社で鎌倉幕府打倒の祈願を行った。現在の奥宮は、山腹に大山山頂の遥拝所として設けられたものと伝えられる。その後、奥宮は冬季に祭祀が行えないため、山麓に冬宮(現在の本社)が設けられ、夏季には奥宮、冬季には本社で祭祀を行うようになった。本社は当初は大山山麓にあったが、数度の遷座の後に明治初年に現在地に遷座した。明治八年(1875)、神仏分離によって大山寺を廃し(後に再興)、山腹の智明権現の仏塔を廃して奥宮とした。(Wikipediaより)
土用ダム
岡山県真庭郡新庄村字土用、旭川水系新庄川の支流土用川に建設されたダム。高さ86.7㍍のロックフィルダムで、中国電力の発電用ダムである。同社の大規模揚水式水力発電所俣野川発電所の上池を形成し、下池俣野川ダム湖(猿飛湖)との間で水を往来させ、最大120万kwの電力を発生する。中国電力の水力発電所としては最大の規模である。俣野川発電所は昭和61年(1986)10月、日本で初めて2県をまたぐ揚水発電所として運用を開始した。下池である俣野川ダム(猿飛湖)は中国山地を挟んで向かい側となる鳥取県日野郡江府町にある。両ダム間の中間に設けた人工の地下空間に4台の水車発電機を有し、両ダム湖間で水を往来させることで最大120万kwの電力を発生する。土用ダム建設にあたり、ダムの型式としてロックフィルダムが選択された。これは周辺の地盤の風化が進行していたことと、ダムを構成する石材が入手しやすいことによる。また、土用ダム湖の周囲には湖を取り囲むようにして排水路が敷設され、土用川を含め渓流の水が流入しないようになっている。これは水利権上、俣野川発電所で発電に利用することができるのは日野川水系俣野川の水に限られているためで、土用ダムに貯えられている水はすべて俣野川ダム湖より汲み上げられた俣野川の水となっている。土用ダムは1986年6月より湛水を開始しているが、このときも先に設置を完了した水車発電機の揚水運転によって行われた。なお、俣野川発電所は平成8年(1996)4月に4台の水車発電機すべての設置を完了している。(Wikipediaより)
 
岩国弥山社
山頂は昔の阿品村、瓦谷村、日宛村の境になっており、阿品には弥山堂、瓦谷には赤瀧神社、そして美和町の日宛には日宛神社(弥山本堂)がある。その阿品の弥山社に関して、『玖珂郡志』には興味深い記載が見られる。「弥山社、松尾山長楽寺鎮主。巌邑の北十二里ばかりに山有り、弥山といふ。其の最も高くして衆山に甲たるを以てなり。古より小祠有り、阿字名山と称す。世人其の神を称して新四郎といふ」と弥山の神は新四郎であると言い、さらに「里俗説に此の山中に新四郎と云える天狗住して、或いは僧、或いは山伏、或いは武士の形に顕れ樵牧の目に見えしこと度々なり。また音楽の声聞こゆること、春夏は昼前、秋冬は昼過ぎなり。夜中に聞こゆることもあり。郷、俗にこれを御鳴りと云。また早声とて、五月早苗をさすべき頃、弥山の辺りに当て、田植えの声聞こゆ。此の声を聞いて、村中の稲を植える期とす云々」ともある。新四郎は天狗であり、天狗は猿田彦命を意味し、猿田彦は農耕の神であることから、以上の記録にもあるように新四郎は田の神であることがわかる。(中島篤巳(2000)「山口県百名山(葦書房)」210頁~211頁)
 
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日晩山 三本松眺望
三本松は日晩山の絶頂にあり通行道路をはなれ五丁(約550m)はあり東の方なる山路を登る其所は根一本にして三ッ俣となりし古松ありいずれも甲乙なかしが風雪又は野焼等のため枯損して今は名のみ遺れり此所の眺望は西海に眺ば長門の三島石見の高島等陸地を望ば室谷の大麻山、乙子の比礼振峰須佐の鴻山津和野の妹山安芸の鹿龍山目前にあり高津港の和船の出入汽船の通還目に触れ汽笛の声も耳に響き実や諺に云う仙境とも云うべき別世界にありけり
   遠近のながめにけふも日晩の山に名高き三本の松蔭  石見津田 澄川敬治     (日晩峠看板より)
蛇瀧伝説
その昔、滝壺に大蛇が住んでいて両岸の山は大木がおい繁り昼間でもうす暗く村人から恐れられていたが、宝暦三年(1753)の夏大洪水に見まわれ、滝壺が流され濁流と共に大蛇は海へ流された。村人達はこの大蛇をあわれみ、此の処へ観音堂を建て霊をなぐさめた。そして大蛇は観音様の権化として、下流の田畑を潤す神として崇められ、現地には農耕の菩薩として馬頭観音が祀られており、古来信仰の対象となっており、下流の村人達が年一回の大祭、泥落しを兼ね報恩会として盛大に行った。往時は神楽芸能、盆踊り等の奉納や接客もあり、近郷の老若男女が参詣し大変賑わった。又断崖は、向かいあってそびえ立ち、左岸の壁に大蛇が登ってつけたと言う跡が残っている。 島根県・益田市・真砂地区活性化協議会 (現地看板より
 
日晩峠
波田の里は、今から約1220年前開拓の第一歩を踏み出した。平安時代(約1010年前)菅原道真が九州落ちするとき備後から陸路をとり追手を避けながらこの匹見街道を通り鎌手村より海路をとったと伝えられ菅公の一行がこの平山に差しかかった時、日が晩れ始め下波田大屋形間の峠まで辿り着いたとき夜が明けたので今日もこの峠を「日晩峠」「夜明峠」と呼んでいる。この古事に関連して波田天満宮は近郷に名をはせている。自動車時代を迎えるまでは匹見益田間の主要交通路として幾多の先人達がこの路を往来しそれはそれは賑やかな街道であった。峠を越えた処に茶屋屋敷跡がある。又その当時から湧き出でる湧水の美味は天下一品である。現在地(登山口)より峠まで1636m。今回歌碑塚周辺の手入れと休憩所を作り誰でも軽装で登れ家族連れのハイキングコースとして喜ばれるよう整備した。 平成2年7月吉日 真砂地区活性化対策協議会 (現地看板より)
 
神光山八幡宮由緒
当宮は、波田地方開闢の祖中岡兼宗が凡一千二百余年前神仏を奉じて入植し一先ず御神体は大松に奉祀しやがて邸内に一宇を建立して奉安した。仁和元年迫川畔に遷座申し上げ一般に自由参拝を許した。これが即ち氏神社で今にいう鎮守社の始りである。その十数年後御示現があって現在地の神光山に鎮座ましました。時代は下って鎌倉後期の延慶元年八月十五日山城国男山の「石清水八幡宮」に当社宮司数名参拝時の流れに沿って新に「八幡大神」を勧請して八幡宮と改め奉斎し「みあかし」を奉ること前後を通算して本年で実に一千百二十八年となる。貴船神社 大正五年十一月二十五日 本社に合祀、天龍神社 大正七年十二月十五日 本社に合祀 ふるさと高砂史より 平成二十一年九月吉日 波田集落 (神社由緒碑より
 
猿田彦大神石碑由緒
さてこの猿田彦大神は明治六年(1872)日晩峠越えの旅人の道案内など願って勧請した。そして国文学者福羽根美靜翁の染筆で石碑を建てた。鳥居は昭和二十八年(1953)波田町田中勝太郎氏が奉献した。然るに歳月と風雪で老朽倒壊したので平成三年(1991)額共に再建奉納した。益田町より安芸国広島へ通う第弐種道にして(明治三十二年秋秋冷道が開通するまでは唯一の幹道)波田の里より日晩山への五合目にして行客の必ず休憩する所なり依て中の休の字あり往古より此所に庚申松と称する老松あり安政二年(1855)正月社員を募り福羽美靜君の揮毫を乞ひて碑石を建設せり
 大神の御徳なるらん旅人の往来たえせぬ日くらしの山 茂節 (現地看板より)
 
 目次
牧野富太郎歌碑
 衣に摺りし昔の里か燕子花(かきつばた)
私は昭和八年六月に広島文理科大学の学生を連れ同県下を旅行した時、ずっと北の山県郡の八幡村という辺鄙な処へ行ったのである。其処に二町歩ぐらいカキツバタが野生して居る処がある。それは道の縁になっている平地です。あゝ云う広い処にあれぐらいカキツバタが野生して居る処はちょっとない位に盛んに生えて居た。六月ですから花盛りで、非常に綺麗に花が咲いて居た。私は染々見て居る間に、染料上の色々なことが浮かんで来た。山に咲いているので、見渡す限り鮮やかな紫の一色です。花を取って潰して絞ると汁が出る。それをハンカチに摺ってみたところが誠によく染まる。少しもムラなく紫色に染まって居る。これは乾くと、生の時よりも色が薄くなって藤色みたいになる。其時は夏のことですからワイシャツが白であった。胸にも大いに摺り着けた。昔の人の気分になろうと思って、やたらに花を摺り着けて一人悦に入った譯です。(牧野富太郎著『植物記』(昭和18年刊)より)
天神社由緒 祭神⇒小名彦那神、菅原道真公
天神社の創社年代は不詳であるが往古よりの公伝によれば当地開拓のみぎり、小名彦那神に事業の成功を祈願したところ霊験もあらたかに思いのままに、成就したので神の恵みに感激していると森畑という森の老杉の枝に天より御幣が降りかかったという。皆々不思議の思いをして畏み奉り天より神の御着きなりと、その杉の根元に壱宇の祠を建て、その森を着の森と呼び祠を着森天神と称した。小名彦那神は大国主神と共に国土開発経営に当たられた神で諸業成就医業の神として崇敬されている。御神体は束帯姿の木像で森畑の老杉で彫んだと伝える。なお天神社の現在地は、宝永四年(1707)森畑より遷宮奉斎した地である。後代学問の神、菅原道真公の天満宮崇拝の念が広く世に拡まったので、当社の名にちなんで、公の神霊を配布祀して着天満宮とも唱えるに至った。 平成四年年十月吉日 着天神社 (境内石碑より)
 
吉水園
吉水園は江戸時代半ばの天明元年(1781)の春、加計隅屋16代当主の佐々木八右衛門正任が、この辺りの景観と地形に着目し、山荘として建設を思い立ったものです(現在、加計隅屋24代当主の加計正弘氏所有)。古記録によって建設の概要をみると、まず庭園拵えは同年9月17日から40日間を費やし、ついで翌天明2年8月には園池を前に入母屋造茅葺の吉水亭が落成しました。同年12月には、たたらの神様金屋子社も建立。隅屋は江戸期を通じて中国地方でも最大手のたたら鉄山師であり、その繁栄祈願のため出雲国比田から勧請しました。今上の段に琴平社、稲荷社とともに一宇に覆われています。なお金屋子神社境内には加計隅屋500年祭の碑があります。また、翌天明3年の正月に松林庵薬師堂が落成しました。その後、天明8年(1788)から文化4年(1807)に至る20年間に京都の庭園師 清水七郎右衛門の手によって、三度にわたる改造修理が行われました。清水七郎右衛門は、浅野家泉邸(縮景園)の改修も手懸けており、造園の大家であったといわれています。しかし、そもそも吉水園の作庭は、池ヶ迫と呼ばれた一帯の山と池をそのままとり込み、池(玉壷池)の構えを大きくするため堤を築き、南に面して亭を置くという、その基本の配置趣向のなかに非凡なものがみてとれます。吉水園は、廻遊式の庭園ですが、あきらかに吉水亭からの遠望を意図しており、薬師堂の森を右にして、前方はるかに太田川と山並みを見渡す中二階(高間)からの眺望(借景)は、本園観賞のポイントとなっています。(吉水園HPより)
 
五輪山由来
加計町丸古屋祖先尾沢氏並びに栗栖氏は平家の時代六波羅探題建使庁の役人であった。口伝によると京都福原を追われ屋島の戦(1185)に敗れ河野水軍に守られ西海に赴く途中源氏の追及厳しく止むなく広島湾五箇の浦に上陸し太田川を遡る。右の先頭尾沢某左の先頭栗栖某同勢三百余人加計に至る。川三方に有りそれぞれの行き先を定めんが為正面の高き山に登る。そこに五輪の塔を建て京以来亡き人の菩提を弔う。以来この山を五輪山と言う。(五輪の塔横の看板より)
 
尼子氏末裔の墓
永禄九年富田城落ち城主尼子義久は夫人と訣別す。時に夫人懐妊翌年三月五日阿佐観音寺にて男児を出生し成長して右衛門大輔定久と称す。毛利の追及を逃れて各地を流浪潜伏す。既に一子綱久あり。母は松山城主福屋源次郎の娘なり。父子共に浜田唐金二宮辺りに漂泊し終に芸州猪山大江後の地に旧臣川副美作友重その子弥十郎友久を従えて蟄居安住す。定久は元和五年十月一日五十二歳にてこの地に卒し、子綱久は元和七年加計佐々木家の養子となり盛次と改名す。正保二年六月四十六歳にて卒す。当時の兜鎧兵具を伝えて現存す。ダム建設のため墓石を近接のこの所に移し家書に拠って其の由来を記す。平成五年十月二十日 (墓所石碑より)
 
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岩国城
関ヶ原の戦い後、毛利氏の減封にともない毛利一門の吉川広家(毛利元就の孫)は、石見・出雲・伯耆12万石から、慶長5年(1600)に、岩国3万石に転封された(のちに6万石)。慶長7年(1602)から、錦川を天然の守りとする横山の南麓に居館「御土居(おどい)」を構え、翌年に横山山上に長さ300m、幅200mにわたって本丸・二の丸・北の丸を構築。本丸北隅に3層4階の天守を構えた。慶長8年(1603)に着工し、5年がかりで慶長13年(1608)完成。山頂の要害と山麓の居館をあわせて岩国城といった。別名「横山城」。元和元年(1615)の一国一城令で山上の城は取り壊され、以後、明治の廃藩置県まで、山麓の居館が岩国藩庁となった。現在、居館跡は吉香神社となっている。城郭の中心となる天守台は、古式穴太積み(こしきあのうづみ)と呼ばれる石積みを基本としながらも、戦国時代に、地方独自の石積みの技術が加わった形で造られた構造物である。天守台の石垣は、大きめの石と、すき間に詰めた小さめの石からなり、隅部の角石(すみいし)には算木(さんぎ)積みの技法が見られる。その隅部には、反りはなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。これにより、戦国武将吉川氏の石垣の力強さを垣間見ることができる。現在の物見付きの天守閣は、城下から見えやすくするため、昭和37年(1962)に旧天守台より南の山際に鉄筋コンクリートで建造されたもの。(城内説明板より)
大釣井(おおつるい)
この大井戸は、慶長13年(1608)築城と同時につくられたもので、非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、敵に包囲されたり、落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられている。(城内説明板より)
 
本丸下の空堀
岩国城は、江戸時代初期に築かれた石垣造りの近世城郭である。この時代に築城された城郭の多くは平城で、岩国城のように山頂に城郭を築き、防衛を主体とした空堀を築造したものは、全国的に見ても極めて珍しい。この空堀は、幅約19.6m、深さ約10mと、日本最大の箱堀構造で、明らかに敵の鉄砲による攻撃を意識して造られたものである。石垣は空堀の部分には築造されていない。(城内説明板より)
 
野原八幡神社
社伝旧記に、当社は起源古く、第四十九代光仁天皇宝亀二年(771)、正四位藤原百川郷、郡内に、大田、鞆張、津口、桑原の四庄を定め、九州筑紫の宇佐八幡宮分霊を勧請奉祀し、この地に、八幡宮を建立したのが始まりで、この「筑紫」を、「津口」と、なまって今日の津口の地名が生まれたのである。又この地を「ツクシノハラ」と称え、遂に社名も野原八幡神社とよぶようになった。芸藩通誌に、「八幡宮ハ津口村野原ニ在リ禄郷庄十一ヶ村ノ民 同ジク祭リシ」と、筑紫庄六郷大社で総産土神として創建以来建武年間(1334)までは、とくに氏子多数参集し楽を奏し御神幸の祭事盛大に執行されたと伝う。当社の向うに鳥居曽根と云う地名に、往古祭事の盛大さを偲ぶ旧跡が残っている。大永四年(1521)小森勢兵衛連実は租税を省いて本殿を再建したが文禄(1592)、万治(1658)時代に火災に罹り宝物記録等全焼した。寛文十二年(1672)、六郷の寄付で本殿を造営、安永四年(1775)再建したと記録がある。天明元年八月(1781)鎮座一千年相当大祭を十一ヶ村氏子参集し三日間盛大に祭式を厳修したと記し、又文政十年(1827)に六郷の寄付で石鳥居を建立する。之より津口一村の氏神社となり、明治五年(1872)村社とし国家管理となるも大戦後昭和二十一年神社規則制定により県知事の認証を経て宗教法人として広島県神社庁の直属で、神社本庁の管轄下である。昭和五十三年四月二、三日厳修 氏子一同 (現地看板より)
 
野原八幡宮鳥居(昭和六十二年十一月十一日 町重文指定)
この鳥居の初建は永正元年(1504)9月大旦那小森連実の建立で、延享四年(1747)崩壊したため、宝暦元年(1751)に木造鳥居を再建、文政十二年(1829)石造鳥居が建立され現在に至っています。野原八幡宮は大宮八幡宮ともいわれ、往古津口荘の総鎮守でした。金石文にあるように氏子の範囲は、津口、青水、小国、賀茂、黒川、篠、蔵宗、萩原、萩原福田、上徳良、下徳良の十一ヶ村に及んでいたことを証明する鳥居です。(現地看板より)
 
石造古鳥居(昭和五十五年六月十六日 町重文指定)
この地より東方約二百メートルの山中にあります。高さは二メートルと低く、転び(柱の傾斜)がなく、古式の石鳥居です。文永十酉年九年(1273)と刻まれており、貫や笠木は明治三十年(1897)に修復されたものと思われます。本鳥居は全高二.五メートルで、笠木は後補で、鳥居としては丈が低く、柱のころびがなく、甲山町今高野山粟島神社の鳥居(広島県重文)の鳥居と同じく古式のものです。鳥居の左柱正面に「野原八幡宮 神主左近太夫」、裏側に「延享四丁卯九月崩ル 明治三十年九月再建ス」、右柱裏面に「文永十酉大旦那小森」と刻銘があります。往時は、老若男女がこの鳥居をくぐって、野原八幡宮へと詣でたものと思われます。 昭和六十三年十一月一日 世羅町教育委員会 (現地看板より)
 
岩屋堂洞窟・岩屋堂岩陰遺跡 庄原市指定文化財
この遺跡は、静岡大学藤田教授、廣島大学潮見助教授、上下高校服部教諭等の手で発掘され、石灰岩の角礫が多く含まれた粗製土器で、あわい条痕のあるものや、縄文のものなど、縄文後・晩期の土器片が多く出土されました。岩陰は、上方の高さが15m、奥行3m、長さ15mあります。岩陰前には黒目竹丸城主伊達美濃野守行延の菩提寺松梅軒があり、その観音堂の棟札には、安政五年(1858)再建と記されていましたが、今は倒壊し昔の面影をしのぶことはできません。上方の洞窟は、奥行33.5m、下方の洞窟は奥行14.9mあり、昔の人々が雨露をしのいでいたものと思われます。 庄原市教育委員会 (現地看板より)
 
目次 
木谷峡メモ
①木谷峡姫岩伝説
約800年の昔、この岩の上でくつろいでいた「朝狩姫」が、通りかかった土地の若者「清次郎」とめぐり会い、恋に落ちた。身分の違いから添い遂げることが叶わぬと見た二人は、この岩の上で心中しようとした。すると真っ赤なもみじが舞い散る中から老武人が現れ、心中を押し止めて、周囲の者を粘り強く説得、二人はこの世で幸せな生活を送ったと云う。
②木谷峡鹿落ちの滝伝説
ここに住んでいた平家の落人に追われた鹿が、この滝を飛び越えることができず、足を踏み滑らせたことから「鹿落ちの滝と名付けられたと云う。香椎神社にその鹿の頭蓋骨が保存されている。
③平家屋敷跡
嘉永四年(1185)、壇ノ浦の戦いに敗れた平家一門の松前隼人守は、一族主従と共にのがれ、一時馬糞ヶ岳(追手の馬糞で山が一変したのでこの名がある)に身を隠した。しかし、ここも源氏の知るところとなり、この山峡にたどりつき、農耕や木地師をして生計をたてていたことから、「平家屋敷」と呼ぶようになった。なお、この山峡には平家ヶ岳、御所ヶ谷、御所、木地屋など、平家にちなんだ地名や、宇越歩(うおほう)などの行事が残っている。   (以上現地看板より)
華蔵寺(けぞうじ)由緒
当山は、龍翔山華蔵寺といい、臨済宗南禅寺派の寺なり、通称枕木山とも言う。海抜四百五十米、禅宗の古刹なり。本尊は南無釈迦如来を安置す。桓武天皇の御宇、延暦二十二年(808)天台宗智元上人の開基なり。初めは天台宗であったが、後五百余年を経て、亀山法皇御不例の砌、勅願により当寺で御祈念、杉井の霊水と御秘薬を献上、日ならずして御平癒、この因縁により、帝深く御帰依、当寺を禅宗に改めさせ南禅寺(亀山帝御開基)の末寺とし、時の山主濟遍禅師を中興の祖とす。爾来皇室の外護を蒙り隆盛を極める。然るに戦国時代、尼子、毛利の兵火に遭い、諸坊伽藍什宝悉く焼失し寺運も大いに衰頽するに至った。其の後慶長六年(1601)堀尾吉晴公松江に城を築くにあたり、城の鬼門に当れりとて当寺を祈願所とす。爾後藩主の外護を得て堂宇伽藍を造営復興す。松平直政公に至り再興なり輪奐の美を極む。寺運漸く恢復し、歴代藩主の帰依厚く禅風大いに振い天下の霊山と号されるに至った。現在の諸堂はすべて当時のものなり。薬師堂(鳳形造)には南無薬師瑠璃光如来(重文)を奉安す。恒例の祭礼は春五月八日、秋九月八日に厳修す。特に授児、安産、胎毒守護、無病息災、諸願成就等霊験顕著なり。山頂から湧出する霊水で咽喉を霑すと心身清浄なりと。展望台からの眺望は雄大で、山陰随一の好環境である。開創以来壹千百有余年の歴史と伝統を持つ霊山であり、禅の修行道場でもある。(現地看板より)
出雲北山メモ
①北山山地の地質
北山山地は、今からおよそ2000~2500万年前に生成された泥岩や砂岩などの堆積岩や、海中で火山噴出を繰り返しながら形成された流紋岩、石英安山岩、安山岩、玄武岩などの火山岩からなり、その後において、褶曲や断層などの変形作用を受け隆起したもの。仏教山などの南方の山々とはもともと一連の地層であったものが、強い褶曲を受け凹地を形成し、その凹地に斐伊川や神戸川により運ばれた泥や砂が堆積し、現在の出雲平野ができあがっている。
②出雲平野と築地松
出雲平野には、民家が点在しており典型的な散村形態が見られる。これらの民家の周りには、きれいに刈り込まれた松の生垣が見られる。築地松と呼ばれ、クロマツ、タブノキ、シイ、ツバキ、タケ類などがそれぞれの育つしくみをよくわきまえて植栽されている。これらは、東・西・北三方に植え込まれ、冬の強い季節風や洪水に備えたり、枝を燃料にするなどの工夫がなされている。
③旅伏城跡
参道石の鳥居の右上方が城跡と伝えられているが、定説はない。この城は尼子毛利時代のものではなく、それ以前の南北朝時代にすでに山城として利用されていたと推定される。
多夫志の烽(たぶしのとぶひ)
旅伏山には古い昔多夫志の烽が置かれていた。この烽は山の頂上で烽火を上げ敵が攻めてくることなどを他に知らせる役目を果たしていたものと云われている。今でも頂上に烽火台という平らな台地が残っている。
④都武自神社(つむじじんじゃ)
風の守護神で、祭神は速都牟和気命、事代主命ほか
(以上現地看板より)
妙見本宮降松神社由緒(旧縣社) 祭神 天之御中主大神 神徳 創造の神、厄除・開運の神、星の神
推古天皇三年(595)、都濃郡鷲頭の庄、青柳浦の一松の樹に大星が降り、七日七夜輝いて、「吾は天之御中主尊なり、今より三年ならずして、百済国の王子来朝すべし、其の擁護のために天降りし」と云う託宣があり、同五年(597)三月二日、大内氏の祖先、百済国の璋明王の第三王子琳聖太子が来朝し、桂木山に御神霊を祀り北辰妙見社とたたえ、鷲頭の庄の氏神となる。以来青柳浦は降松と改められる。推古天皇十一年(603)高鹿垣に社殿を遷し、同十七年(609)鷲頭山に、上宮、中宮を建立する。大内広世公は、鷲頭山の麓赤坂の地に若宮を建立し、大内義弘卿は、防・長・石・豊・紀・泉・和の七州の太守となり、応永元年(11394)中宮に五重塔、並びに仁王門を新たに建立する。七州の各地に北辰妙見社が勧請され、鷲頭山は妙見本宮として広い信仰を集める。慶長十三年(1608)火災に遭い、中宮本殿のみ焼失を免れ、現今の本殿は、大永三年(1523)大内義興公の再建による。山門(仁王門)は、文化四年(1807)氏子中の再建による。大内氏滅亡後、毛利の暑い信仰を受け、元和年中には、赤坂の若宮を今の地に遷し、現今の若宮は、明和四年(1776)毛利就馴公の再建による。明治三年(1870)降松神社と改称され、昭和三年(1928)県社となる。境内は俗塵を払い古木鬱蒼とし、参拝者の心を粛然とさせる。明治四十五年(1912)一大公園を設け「偕楽園」と名付け、春はつつじ・桜、秋は紅葉が錦を飾り、眺望絶佳にして、大正八年(1919)中将長岡外史は「周防第一園」とたたえ記念碑を建立する。(現地看板より)
 目次
駒ヶ林
厳島(宮島)の山塊は大別すると、弥山・駒ヶ林・岩船山の集まりで、地質はいずれも花崗岩類である。弥山の北西約500mに位置している駒ヶ林(509m)の山頂部は、南北35m東西10mの岩石床で、表土はない。駒ヶ林の西面は高さ約50m、長さ約450mに及ぶ断崖が北から東へ20度の方向にのび、断崖の傾斜は西に約85度の一枚岩で岩登りのトレーニング場となっている。この壁面は弥山本道の幕岩の壁面や駒ヶ林の西方約300mに見られる断崖と平行に並んでいて厳島の地形を特徴づけるものとなっている。また、駒ヶ林は弘治元年(1555)の厳島合戦の古戦場の一つで、龍ヶ馬場の攻防として知られている。
龍ヶ馬場(駒ヶ林)
弘治元年(1555)十月一日寅の国(午前四時)に始まった、厳島合戦は、毛利軍の奇襲攻撃が功を奏し、忽ちにして大勢を決した。陶の勇将弘中三河守隆包は、主君陶晴賢を大元へ落とした後、僅か百騎ばかりの兵と共に弥山に登りここにたてこもった。これを追ってきた吉川元春以下の毛利方は、数倍の軍勢でこれを取り囲んだが、隆包の必死の働きでどうしても、打ちとることができず、やがて柵を作り兵糧攻めの作成をとった。さしも勇猛な武将弘中三河守もついに力尽き、二日後の十月三日嫡子、中務と共に井上源右衛門らによって討ちとられた。こうして史上名高い「厳島合戦」は終わりを告げたのである。厳島図絵には、「巌上に馬蹄の跡あるを以って、一に駒が林ともいふ」と記されている。
 
深山の滝
深山の滝は桧下山(593m)を源流とする全長約6㎞の大屋川の河口から約3.3㎞、標高約209mの山中にある。上段が10.5m、下段が14mの二段の分かれ滝である。水は幅約20mもある一枚岩(黒雲母花崗岩)を流れ落ち、上下の滝の繋ぎ目に深さ1.3mの滝壺ができている。この滝は、「文化度国郡志」では“ひめつるの滝”、「藝藩通志」では“姫摺の滝”と記され、戦国時代、毛利氏に滅ぼされた野間則綱の居城(妣摺城)がこの付近にあり、落城の際その姫君が家臣とともに、滝の上で自害したことから、この名前が付けられたと言い伝えられている。
 
下山林道
十方山林道沿いの下山橋(標高880m前後)から、下山林道が南に向かって十方山南西尾根に上っている。この下山林道は、十方山南西尾根の鞍部(標高約1090m地点)を越えて瀬戸谷に入り、少し下ったところにある十方山雨量観測局のすぐ先で、二つに分岐する。一つは、南西尾根の東南面を北東に向かい、十方山南尾根の近くで終わっている。もう一つは、反対方向の南西に向かい、黒ダキ山の手前で終わっている。黒ダキ山に向かう林道は、黒ダキ山北西の最低鞍部を乗り越して、立野キャンプ場から延びる林道とつなげる計画であった。このため、細見谷の林道も下山林道と呼ばれている。正確な年月は不明だが、この計画は中止され、瀬戸谷や細見谷には、今でも落葉広葉樹の美しい自然が残っている。
 
竜ヶ懸崖観音の不思議なお話
行基によって彫られた初代の観音像は、現在、近くの玉蔵寺というお寺にあるそうで、次のような言い伝えがある。その昔のある夜、一人の不心得者が、竜ヶ岳の観音様を盗んだ。夜道を一晩中逃げて、もう大丈夫だろうと石段に腰掛けて休んで見れば、そこは玉蔵寺の前だった。王蔵寺は竜ヶ岳の山内にあり、恐らく、寺の周りを一晩中歩き回っていたものと思われる。彼は「これは観音様の祟りであろう」と、その観音様をお寺の縁に置いて逃げた。その後、その泥棒の一人娘が大変な病に苦しみだしたので、これも観音様の祟りであろうと、王蔵寺に行って全てを自白して懺悔したら、不思議なことに龍神が姿を現し「娘の命を助けたければ竜ヶ岳に登り40日間座禅をくみなさい」とのお告げがあった。彼は雨の日も嵐の日も、観音経を一心に唱えながら座禅を続けたところ、40日目の朝、東の空が白みかけた頃、今度は観音様が姿を現し「お前の娘の病はもう治った」と告げ、彼を背中に乗せて竜ヶ岳から空を舞い降りた。その時に眺めた五竜の滝の姿は、まさに先日現れた「龍神様」の姿だった、と云うお話。泥棒の一件があってから、やはり竜ヶ岳の巌の上では無用心なので、その観音像は玉蔵寺で預かる事にして、身代わりに石で彫った観音様が置かれた。この観音さまが2代目で、何年かたったら、また居なくなった。誰かに盗まれたのだろうということで、新しく3代目の石の観音様が置かれた。現在、2代目の観音様も玉蔵寺にあるそうで、それは、盗まれたのではなく転げ落ちていたのだとか。平成3年の9月、台風19号の後、3代目の観音様が心配になって上がってみると、果たして居なくなっていた。台風の後で、風で転げ落ちたと思い、下の急斜面を探したら、その3代目は見つかったが、台座も無くなっていたので、さらに探したところ、何とその昔、盗まれたと思っていた2代目の観音様も見つかったそうである。ほんまですかぁ~。
 
五里山という呼名の由来
多くの人は、五里山という山名の意を〈五里も続いている長い県境主稜の山〉と解しているようだが、これは誤りであって、この県境主稜はそんなに長くはない。五里という呼称は、藩政時代に島根県匹見町野入と広島県吉和村の大向を結んでいた西中国山地の主稜を横断する石州街道の長さを表わしている。この街道は、匹見町側、吉和村側ともに昔から〈五里のナカエ〉と呼ばれており、この呼称は現在も使われている。村岡浅夫著『広島県方言辞典』によると、ナカア・ナカエ・ナカラは〈・・・の間〉の意とある。〈五里のナカエ〉は〈五里の間〉つまり、石州街道自体の意である。〈五里のナカエ〉には二つの峠があり〈全行程五里にまたがる長い山越えの道〉という意が、いつの間にか〈五里を越える道〉と変わって来たのであろう。吉和村では〈五里山〉という呼称は誰でよく知っているが、どの峯であるかは判然としない。〈五里山〉というのは、〈五里にわたる長い街道沿いの山々の総称〉というのが多くの古老達の話を聴いて筆者の得た結論である。(中略)『匹見町史』をひもとくと、県境主稜上の無名峯、一一二九・七㍍峯に〈中尾山〉という山名が付されている。三角点の点称が「中尾」なので、そのまま山名にしたようだが、〈ナカオ〉はこの山の北西尾根の末端、広見川左岸の甲佐宅より三〇㍍下手にある水流のほとんどない小さな谷の名として使われている。当時の測量員も無名の山の山頂に作った三角点の点称を付けるのに困惑したのだろう。自分達が泊めてもらった家の背戸の裏山の名を山頂の三角点の点称に使ったとはほほえましい。戸河内横川の故隠居庄五郎老人とは一緒に細見谷へゴギ釣りによく行ったが、老人は〈トリゴエの頭〉と呼んでいた。吉和村半坂の三浦一之介家所蔵『吉和村絵図』によると、この山に〈京ツカ〉の名が記されている。これがこの山についての唯一の資料である。 (「西中国山地(桑原良敏)より」)
 目次
苅尾山(カリウザン・カリオサン)
戦前の陸地測量部発行の旧五万分の一図『木都賀』には苅尾山とあったし、歴史的に見ても〈苅尾山〉という山名が使われるのが当然と思っていたが、前後の昭和二十二年版より〈臥龍山〉に改められているので唖然としてしまった。山名改名のいきさつについては、村人に聞いても誰も知らないというので判然としなかったが、宮本常一著『村里を行く』の中の一章に、(中略)後藤吾妻氏より聞いた話が記されている。「古事記」の大蛇退治はこの村(八幡村)での出来事であろうと説こうとしている人があるという。國學院大學を出たという相当の人物のようであるが、講演とかに来て土地の古い話を聞き、刈尾山は臥龍山、樽床は八つの酒瓶をならべたところ等々と解釈を下し、この地方の民家が屋根に千木をうちちがえているのは、神代様式の建築であったという。本気で言ったのであれば、いささかどうかしているのであり、冗談半分の仕草であるとすれば罪が重い。土地の人は学者の言葉として、これを信じようとしているという。
掛津山(カケヅヤマ)
雄鹿原側の政所村では〈かげす→かけず〉八幡村では〈かけつ→かけず〉と変化してきたものと考えられる。いずれも仮名書きであるが〈かけず〉がいつ頃より漢字化されたのか判然としない。恐らく明治五年の地籍設定の時であろう。〈掛津〉はこの山の東側の雄鹿原(旧橋山村)の小字名として用いられ、〈掛頭〉は西側の八幡村の小字名である。陸地測量部発行の旧五万分の一図は長い間〈掛津山〉の字が使用されていたが、どうしたことか戦後の昭和二十二年版より〈掛頭山〉に変えられた。
                                                    (以上「西中国山地(桑原良敏)」より)
石船山の摩崖仏
天徳寺25代住職・永井大暁和尚の代に観音様を信仰する人たちが、家門の繁栄や健康を祈って彫られたものである。施主は下関の信者が21人と圧倒的に多く、次に防府の7人、東京と京都の信者が各1人、その他3人は不明である。なぜ下関の信者が多かったのかについては明らかではない。天徳寺境内に丈六の聖観音菩薩像が、大正4年5月10日に勧請されたのを契機として、大正4年7月3日に第二番の龍頭観音の製作が始まった。その後大正7年から13年まで足掛け10年を費やして31体の摩崖仏が製作されている。また製作途上の摩崖仏が一体あり、恐らく「岩戸観音」ではないかと推察される。なお、三十三観音の第一番「揚柳観音」(薬王観音ともいう)は当初より彫られておらず、観音堂内の「聖観音菩薩像」をもって、充当したのではないかと推察される。(周防国第二十五番札所観音堂脇の掲示から抜粋)
天徳寺の歴史
建久3年(1192)、源頼朝公が鎌倉幕府を開いた際、全国66ヶ所にそれぞれ一寺を建立し、国家の興隆と幕府の安泰を祈願したと云われる。その年周防の国では、この地に総受寺(そうじゅじ)を創建し、記念樹として境内に公孫樹(いちょう)と白檀を植えたと伝えられている。それ以来、この寺は武家の祈願寺として栄えたが、寛永2年(1625)に毛利元倶(もうりもととも)公(毛利元就の七男元政の子)が熊毛郡三丘より右田に移ると、右田毛利氏が清和源氏の流れを汲むことから、この寺を菩提寺に定めて七堂伽藍の再整備を行い、父・元政公の法名である「天徳性真大居士(てんとくしょうしんだいこじ)」にちなみ、寺号を天徳寺と改めた。悲運なことに明治3年(1870)の脱隊騒動による兵火で、伽藍古文書のほとんどを焼失したが、右田、多々良両毛利家をはじめ多数檀信徒の喜捨により再興し、現在に至っている。寺の東の山麓には、右田毛利家の墓所があり、上段に元政の霊廟、下段には歴代領主や奥方の墓が整然と並んでいる。(天徳寺のHPから)
 
さねもりさま
寿永2年(1183)5月、北陸道進撃に向かった平家10万の大軍は越中砺波
(となみ)の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の合戦で木曽源氏義仲軍の火牛攻めにあって惨敗した。斉藤実盛もこのとき平家方の武将として、敗走する平家軍を叱咤激励しながら、追撃してくる源氏軍と華々しく戦っていたが、田植えの終わった水田の稲に足をとられ、倒れたところへ源氏の兵士多数が襲いかかり無念の最後をとげた。陸上を逃げた平家の将兵は落人となって山間僻地へ散っていった。斉藤信実主従は平家の荘園であった浅口郡大島庄を頼って落ちのび、柴木の(実盛)の里へ隠れ住んだと伝えられている。備中国の山地では「虫追い行事」に「さねもりさま」という麦わらで作った等身大の人形に、虫のついた作物を結びつけて祈祷した後、川へ流しに行くという風習があった。無念の怨みのうちに死んだ実盛の霊魂が、稲虫となって作物にたかるのだと信じられるようになったと云われている。斉藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)は、もと東国の武士で初め源氏に仕えていたが、後に平家側の武将となった。(「HP玉島歴史館」より
八幡高原
八幡盆地は標高750~800㍍で、西中国山地の中でも最も標高の高い盆地である。周囲は1,000㍍を越す山をめぐらし、かなり広い面積を占めている。年間降水量は2,600㎜を超え、中国地方最多雨域でもある。年平均気温は10℃、最も高い8月でも平均気温は23℃である。また、現在まで観測された最高気温は34℃、最低はマイナス23.2℃で、気温的には青森、盛岡市の平均気温に等しい。多雨域なので、盆地内の平坦地には湿地が多く、特異な景観をなしている。(「西中国山地(桑原良敏)」より)
 
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大歳神社
『古事記』によれば、大歳神は素戔嗚尊と大山津見神の女、神大市比賣
(かむおおいちひめ)との間に生まれた神であり、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とは同胞神である。「年」は稲の実りのことで、穀物神である。その根底にあるのは、穀物の死と再生である。古代日本で農耕が発達するにつれて、年の始めにその年の豊作が祈念されるようになり、それが年神を祀る行事となって正月の中心行事となっていった。現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった。各家で年神棚・恵方棚などと呼ばれる棚を作り、そこに年神への供え物を供えた。また一方で、年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。((Wikipediaより) 
天真名井(あめのまない)
駅の辺りのあちこちから、中国山地の豊潤な水がこんこんと湧き出ています。飲めば身体に効験のある延命水として親しまれています。高天原にも、汲めどもつきぬ清らかな天真名井があって、神々は浄めに用いられました。坂根の水も同じように清らかで、身も心も清浄にしてくれるのです。藤岡大拙 (出雲坂根駅構内の掲示板より)
奥出雲町亀嵩(おくいずもちょうかめだけ)
斐伊川の支流亀嵩川沿いの、松江や米子と奥出雲や備後国を繋ぐ道筋に位置。玉峰山(820.3m)の西麓に天正2年(1574)亀嵩城が三沢為清によって築かれ、その城下町として発展した。正徳3年(1713)の指出帳によると、亀嵩には17軒があり目代が置かれている。2町程の町並みで、毎年12月27日に市が立つ小さな在郷町であった。当地の産業に算盤がある。雲州算盤とよばれ全国に知られていた。当町の大工で村上吉五郎が芸州広島の塩屋小八作の算盤に魅せられて、天保3年(1832)これに優るとも劣らない算盤を造り、改良を重ねて、量産にも成功し雲州算盤の名が全国に知れ渡った。古い町並みは旧街道筋の両側に展開している。R432は旧街道筋の東側をバイパスとして通ったので、町並みは昔のまま保存された状態で残っている。町並みを構成する家々は切妻造りで平入りの家屋で2階建てが多く、赤褐色の瓦葺きと黒瓦葺きが半々程度。見事な町並みを形成している。(HP「古い町並みを歩く」より)
玉峰山
山上に玉上神坐す、故に玉峰と云う、今俗亀嵩と稱す、「風土記」に載る玉作社は此れ頭に坐す神なり麓に雄瀧雌瀧とて飛流あり、雄瀧の高さ十三尋雌瀧の高さ一丈岩上に十一面観音を安置す、近来土人霊夢によって草堂を建立せり、古は山下に観音堂仁王門あり、何時か頽破して今はなし(「雲陽誌五」より)
 
鶴ヶ城
鶴ヶ城は至徳元年(1384)葦名直盛が造った東黒川館が始まりと云われている。その後、会津領主だった葦名盛氏が改築し現在の城郭の原型を築いた(黒川城)。その後、文禄2年に蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城、名前も「鶴ヶ城」と改められた。戊辰戦争で約1ヶ月の籠城戦を戦い抜いたが、明治7年には陸軍省の命令により取り壊された。その後、城跡は旧会津藩士遠藤敬止らの尽力により、陸軍省から払い下げられ、昭和9年に国から史跡として指定を受けた。現在の天守閣は昭和40年に昔の姿をそのままに復元されたものである。 
合戦沢
今を遡る桓武天皇の御代…中房温泉、有明山に棲む魏石鬼あり、自らを八面大王と呼称し妖術を使う大鬼雲を起し、霧を降らし天を飛び里に出ては財宝、婦女を掠奪、山野に出ては社寺仏閣を破壊し、狼藉三昧の明け暮れと云われた。坂上田村麻呂、魏石塊を滅ぼさんとするも魔力強く、敗戦の連続と思うにまかせず、栗尾山の観音堂に願をかけ、霊夢をさずかる「三十三節の山鳥の尾で作った矢を使えば…」(中略) ついに中房川上流の谷間で大合戦の末、魏石塊を討ち果たす。合戦の沢、今の合戦沢を云う。
 
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比丘尼ヶ渕の伝説
今はその跡を残しませんが、一宇の古寺があっていつの頃か妙齢の比丘尼が一人住まいを始めました。里人と交わることがなくその名さえ知れませんでしたが、風のまにまに漏れ聞こえる読経の声と、炊(かし)ぎする尼の横顔を垣間見て、里人はその美しさと若さに驚きました。およそ二十歳ごろか、いわくありげなその面ざしにいろいろ取沙汰しましたがその素性を知ることも出来ません。しばらくして、里人たちは比丘尼が松ヶ峠に登るのを一再ならず見かけました。いずれも月明かりの夜のことですから、若者達は怪しんである夜誘い合わせて後を追いかけますと、比丘尼は知ってか知らずか淵に到り、淵瀬に裸身を沈め何事かを念じ悶えています。そのさまは妖しくも美しく、若者たちは声を呑み、われを忘れて月の陰るのさえ気付きませんでした。うわさはたちまち近在に広がりましたが、みな怪しみ恐れて近寄るものもなく、以来何事もなく古寺も荒れ果て、いつの頃か比丘尼の姿も消え失せ、里人たちは「あれは狐狸の住まいであろうか」と話し合いました。そのころ、この里は中道(ちゅうどう)と呼ばれていましたが、そこに伝三と言う若者がいました。ある日、馬に荷を積んでくだんの松ヶ峠にさしかかりました。比丘尼の噂もようやく人の口から消えるころ、 伝三はかつて垣間見た比丘尼の裸身が忘れがたく、この辺りかとしばらく馬とともに一息いれていました。すると、腰かけた伝三の足先に一匹の蜘蛛があらわれ、糸を指先にかけ夏草の繁みに消えていきいきます。 たくみに糸かけては消える蜘蛛にいたずら気をおこして、指先で馬の蹄にその糸を移し変えてしまいました。 蜘蛛は知らぬげにしつように今度は馬の蹄に糸をかけます。伝三はいつとなくウトウトとまどろんでいました。すると、突然馬がいななきながら懸命に後ずさりしているのに目を覚ましました。 見ると、馬の蹄にかけられた糸が手綱程に太くピンと張られて端は淵のよどみに消えています。伝三がのぞき見ますと青くよどんだ底に比丘尼の裸身がうずくまっているのが見えました。 そして蜘蛛の糸は、まぎれもなくその比丘尼の口にしっかりとくわえられています。真夏の昼下がり、しびれるように聞こえた蝉しぐれもはたと止んで、伝三は一瞬の静寂に背筋の凍る思いがして驚き、怖れ戸惑ううちに馬はどっと淵に引きずりこまれ、尼と共に見えなくなりました。しばらくして、水面は何事もなかたように静まりかえり蝉しぐれがひときわ繁く谷間をおおいました。伝三はあまりの珍事に顔色を変えて家に走って帰り、そのまま大熱を出して寝こんでしまいました。そして比丘尼ヶ渕の出来事を家人に語ったまま狂人となりました。しばらくして伝三はうわ言に比丘尼を慕うことを口走りながら、戸外に走り出て行方知れずとなりました。丁度月夜の晩のこととて里人が騒いで後を追いましたが、「やがて伝三の比丘尼ヶ渕に沈み、みまかりけるを見つけたり」と云い伝えます。ちなみに、伝三は近郷まれな美丈夫であったとか…。比丘尼(びくに)とは尼のことですが、一般的には尼僧の格好をした遊女をいうようです。そして、この比丘尼ヶ渕の名前の由来ですが、尼僧に化身した渕の主が中道の美丈夫(イケメン)に恋をしてクモの糸で引き寄せ、青年もまた尼僧を慕うという伝説によるものです。(廿日市市観光協会佐伯観光ガイドより)
悪谷の兵衛伝説
悪谷兵衛は平家の落ち武者とも、一界の世捨て人とも云われていますが明らかではありません。彼はいつのころか、栗栖集落から3キロばかり離れた山中の岩陰に小屋をかけ、山に入っては鳥獣をあさり、わずかばかりの水田に稲をつくって妻とともに暮らしていました。兵衛は米作りの名人だったので、その秘訣を聞こうとあるとき若い農夫が兵衛の小屋を訪ねていきました。兵衛はむこうの山を指差し、「あのあたりに毎年5月ごろになるとコブシの花が咲く。それはまるで雪が降ったように真っ白になる。その頃に苗代づくりをすれば必ず豊作はまちがいなしじゃ」と、黒々としたアゴヒゲを動かし、それだけ言って小屋の中へ入っていきました。 若い農夫は兵衛に教えてもらった米づくりの秘訣を集落の人にも教え、コブシの花が咲く頃に一斉に苗代をつくりました。ところが農夫の中に小意地の悪いやつがいて、ひそかに兵衛の教えたコブシの木を根こそぎ伐ってしまいました。あくる年のことです、兵衛はコブシの花が咲くのを今か今かと待っていました。もうみんなは苗代づくりに取りかかっていました。兵衛はこれを見て、「お前らはわしの言うことを信じないのか、苗代づくりにはコブシの花が咲く頃が一番いい時期なのに」と言って笑いながら通りました。それから四十日して集落に行ってみると、すでに本田の田植が始まっていました。兵衛は少し不安になってきました。「もうコブシが咲いてもいい時季なのに、今年は遅いがどうしたことだろう」と思いながらも、「もう少し待ってみよう」と毎日コブシの花が咲くのを待っていました。しかし、いつまで待ってもコブシの花は咲きません。兵衛はむこうの山のコブシの咲く場所に行ってみました。すると足元に無残に伐り倒されたコブシの木が横たわり、伐り株からはわずかに新しい芽が伸びかけていたのです。彼は思わず走りよって、横たわっているコブシの枯れ木を拾いあげ、悔しさのあまり地面にたたきつけると一目散に山を駆けおり、急いで苗代の準備をしました。が、時はすでに遅く、苗は思うように伸びてくれません。兵衛はついに爆発しました。「コブシの木を伐ったやつは誰だ」と叫んでまわりましたが、誰も知らん顔をしていました。どうしても腹の虫が収まらず、再び赤十字山に登り、数十トンもある大岩を水田の水の取り入れ口めがけて転がしこみました。岩は大音響とともに転がり落ち、栗栖集落のほとんどに水を引く、水の取り入れ口を塞いでしまいました。しかし、兵衛がいくら悔しがっても苗代が遅れては米ができようはずもなく、その年は食うに困って、栗栖集落の金持ちから借金をして米を買って食べました。金持ちは兵衛が困ることを知りながら、借金の返済を迫りました。それを聞いた兵衛の妻は大いに怒り、青竹を切ってタスキにかけ、金持ちの家にどなりこみました。金持ちはこれにおびえ借金の催促どころか「助けてくれー」と大声で叫んで逃げました。兵衛といいその妻といい、無類の力持ちであり、ひとたび怒ると何をしでかすかわからないことを知った集落の人たちは、 それ以来彼らをからかうのを止めました。(廿日市市観光協会佐伯観光ガイドより)
 
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書写山
〈紫雲堂〉
創建は不詳。東坂上の休堂として、参詣者の湯茶の接待所としても長く愛されてきたお堂であった。昭和三十年代半ば老朽化したので、建物を取りたたんだ。その建物は元和九年(1623)に再建されたものと伝えられている。その由来は、康保三年(966)御開山性空上人が九州背振山より東上の折、紫雲たなびく「素戔の杣」に稀にみる霊性を感じ、終生の道場として入山、寺を開基された。その紫色の雲がたなびいていたのがこのあたりと伝えられ、阿弥陀如来を安置し紫雲堂が建てられた。 現地看板より
〈書寫山圓教寺縁起〉
開基は康保三年(966)、性空上人による。上人は敏達天皇の御末、橘善根卿の御子として生まれ、十歳にして妙法蓮華経に親しみ、読誦の行を積み、三十六才にして九州霧島に至り、母を礼(らい)して剃頭(ていとう)し、二十年にわたり、九州各地に聖地を求めて修行される。後、瑞雲の導(みちびき)きに従って当山に入り、草庵を結び、法華経読誦の行を修め、六根清浄を得悟(とくご)され、世に高徳の宝と仰がれる。寛弘四年三月十日九十八歳にして入寂されたが、御徳(おんとく)、世に広まり大衆の帰依も悠々厚く、花山法王は特に尊崇され二度も御来駕(ごらいが)。後白河法王も七日間、御参籠される。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣、大講堂に一泊される。亦平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄せ、諸堂を建立する。本多、松平、榊原の姫路城主も信厚く援助を惜しまず八名の諸侯の墓も今に残る。羽柴秀吉播磨平定に際しては当山に拠って三木城を攻め落とし五百石を寄せる。亦一方天台宗三大道場の一つとしても多くの修行僧を集め、東の比叡山に対し西の比叡山とも称され、大講堂をはじめ三十有余の堂塔伽藍を保有し寺運隆盛となる。現在十八棟の重要文化財を有し、境内十八町歩の霊地は国の史跡に指定され、昔の姿を今に残している。摩尼殿は西国二十七番の札所として全国各地より参詣絶える間なく、世界平和、人類の幸福を祈る読経の声は全山にあふれている。 書寫山 仙岳院孝啓誌 昭和五十九甲子年(1984)一月吉日   摩尼殿下の石碑より
〈白山権現〉
大講堂、摩尼殿に次いで性空上人が第三の吉所としたところで、上人はここで六根清浄の行をつんで心眼を開いたとされる。それにちないで一月十八日の修正会(鬼追い会式)では、主役の赤鬼、青鬼が、先ずこの白山権現に来て神域をまわりながら四隅でたいまつの明かりを振りかざす。この地には、性空上人入山以前より祠があった。それは、素戔嗚尊をまつる堂であった。これは神の時代素戔嗚尊が、この峰で一宿されたと伝える。故にこれを「素戔の杣」と呼んだ。書寫山の名はこれに由来するといわれる。  現地看板より
〈弁慶井戸〉
書寫山には弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円がいたずら書きし、小法師二、三十人を読んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂をはじめ山内の建物を焼き尽くしてしまったと言われている。  現地看板より
〈日吉神社〉
書寫山開基の性空上人が比叡山の守護神・山王権現の分霊を迎えて書寫山の鎮守とした。長和年中(1011-17)、この神々を慶雲上人が、社を創建して奉斎し、山王七社の神々の本地仏(三聖四菩薩)に倣って三聖堂あるいは山王社と称した。毎年一月八日と五月二十三日には、神前で圓教寺の僧侶による「山王礼拝講」の法儀が一山行事として執行される。 姫路市文化財保護協会・姫路市教育委員会  現地看板より
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あさご芸術の森美術館
あさご芸術の森の中核施設で、多々良木ダムの直下の野外彫刻展示と屋内展示施設で構成され、朝来市出身の文勲彫刻家・淀井敏夫の作品群の常設展示と現代美術の企画展などを行う。 屋内施設には展示室のほかアトリエ室や情報コーナー等もあり、館主催のアートキャンプやワークショップを通じて地域への芸術文化普及を担う。野外彫刻展示には彫刻作品が毎年2つずつ追加設置されている。 なお、あさご芸術の森の野外彫刻公園(南谷公園)は美術館施設ではなく緑地公園で、こちらでは公募展「野外彫刻展in多々良木」大賞受賞作等の現代美術家の作品が設置されている。  ウィキペディアより
多々良木ダム
関西電力が管理を行う発電専用ダム。高さ64.5メートルのロックフィルダムであり、ダムの上流部をアスファルトで舗装し水を遮るアスファルトフェイシングフィルダム(アスファルト表面遮水壁型ロックフィルダム)という型式である。水力発電を目的としており、上部調整池である黒川ダム(市川)との間で揚水発電を行い、最大で193万キロワットの電力を発生させる。水力発電所としては、日本最大規模である。  ウィキペディアより
 
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竹田城跡
縄張りが虎が臥せているように見えることから、別名虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)。国の史跡に指定されている。また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもち日本のマチュピチュとも呼ばれる。雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。
東に立雲峡を望む標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。天守台台をほぼ中央に配置し、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、北千畳部と南千畳を双翼とし、天守台北西部に花屋敷と称する一郭がある。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。
沿革
〈室町時代〉

築城に関しては不明な点が多い。江戸時代末期に成立した『和田上道氏日記』によると嘉吉年間(1441- 1443)に丹波国、播磨の出入口である竹田の地に「安井ノ城」が築かれたことを記している。「安井ノ城」とは「竹田城」そのものをさす。『和田上道氏日記』は古い伝承をまとめたもので、竹田城の築城に関しては他に史料がなく『史跡・竹田城』によると「嘉吉三年、山名持豊によって築かれ、太田垣光景が初代城主に任じられたとする口碑を残すのみである」とし永享3年(1431)に但馬守護山名宗全(持豊)によって築城され、太田垣光景が初代城主と言われる伝承を紹介している。この時期、但馬守護山名氏と播磨守護赤松氏の間で度々軍事的衝突が起こる。嘉吉元年(1441)6月、室町幕府6代将軍足利義教が重臣で播磨・備前・美作守護赤松満祐に暗殺され、幕府による追討軍に宗全が志願したからである(嘉吉の乱)。8月に幕府より追討令を受けた宗全は一族を動員して3方から播磨を攻め、宗全軍は丹波より生野から播磨に入国し、9月に城山城にいる満祐を滅ぼした。10月に宗全は恩賞として任命された播磨守護として入国し、太田垣氏を守護代とし赤松氏の掃討戦を実施している。その後嘉吉3年(1443)に赤松教政が、文安元年(1444)に赤松満政が、康正元年(1445)赤松則尚が山名軍に反抗するがことごとく敗れ、自刃・逃亡している。当時の竹田城は播磨と但馬の国境を守る拠点で、播磨を平定するための出撃の拠点ともなっていた。
〈戦国時代〉
応仁元年(1467)、細川勝元と山名宗全の争いが一因で応仁の乱が起こると但馬は細川氏と山名氏の争いの場となった。翌応仁2年(1468)3月、細川軍の内藤軍が夜久野から但馬に侵攻しようとしていた時、竹田城で留守を預かっていた太田垣軍は、竹田城から出軍し夜久野で合戦となり小勢ながらよく戦い、内藤軍の大将2名を討ち取った。夜久野高原には現在も「内藤塚」と言われている供養碑が残っている。
その後も細川氏や赤松氏の脅威は去ることは無く、応仁の乱が終わると宗全の孫山名政豊と赤松政則が播磨などを巡って抗争を続け、一時山名軍が播磨を占領したりしたが、長享2年(1448)頃には敗戦となり政豊の権威も低下、内紛も発生してしまうようになった。大永2年(1522)に政豊の子山名誠豊が播磨へ攻め込んだが、この時になると太田垣氏は出軍要請にも従わないようになり、赤松氏は結束を取り戻し山名軍を追放することになった。
〈安土桃山時代〉
出雲の戦国大名・尼子氏は永禄9年(1566)の月山富田城で毛利元就に一旦滅ぼされた。しかし、永禄12年(1569)5月に元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊(誠豊の甥)がこれを支援した。これに対して元就は織田信長に祐豊の背後を脅かすよう但馬出兵を依頼、これに応じた信長は8月1日に木下秀吉軍2万兵を派兵し、わずか10日間で18城を落城させ、8月13日には京都に引き上げた。此隅山城にいた祐豊は境に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬への復帰を許された。この時竹田城も攻略されたと考えられているが、祐豊の重臣太田垣輝延は引き続き城主として留まったようである。天正元年(1537)、吉川元春ら毛利軍は出雲、伯耆、因幡に進軍し尼子軍を撃破しながら但馬に迫ってきた。太田垣輝延は毛利軍に降伏し、次いで天正3年(1575)5月に祐豊は元春に誓紙を送って芸但同盟が成立する。一旦危機が去ったように思えたが、今度は丹波の赤鬼と言われた荻野直正が同年10月に竹田城を占領すると、祐豊は一転して信長に救援を求め、信長も応じる形で明智光秀を派遣して第一次丹波制圧(第一次黒井城の戦い)を開始し、荻野直正は黒井城に撤退した。
〈竹田城の戦い
やがて信長と毛利氏の間が次第に悪化すると、信長は播磨に羽柴秀吉を派遣した。天正5年(157)10月、秀吉は黒田孝高に迎えられ姫路城に入城、それから1ヶ月で播磨の諸将から人質をとり帰服させることに成功した。その後羽柴軍は二手に分かれ、秀吉率いる本隊は上月城を攻城、別の一隊は秀吉の弟羽柴秀長が3000の兵を率いて但馬に進軍した。秀長隊の狙いは2つあったのではないかと『史跡・竹田城跡』では解説していて、一つは毛利軍に帰服している但馬諸将の制圧、もう一つは生野銀山の確保が目標であったようである。竹田城は生野銀山を管轄しており秀長隊の第一目標になり、11月に秀長隊は真弓峠から但馬に侵攻、まずは岩洲城を攻城し、次いで竹田城を攻城した。天正7年(1579)5月、秀長は信長の命令で明智光秀支援のため竹田城から丹波へ攻め入ったが、秀長は竹田城に戻らず播磨に引き上げたと考えられ、毛利方の太田垣輝延が間もなく竹田城に入城した。翌天正8年(1580)4月、再び信長の命により秀長が6400兵を引き連れ但馬攻めを開始すると、竹田城、有子山城はさしたる抵抗もせず降伏した。祐豊、輝延はその座を奪われ、山名氏と四天王と呼ばれた太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえ滅亡した。秀吉は秀長を有子山城主に、秀長の武将である桑山重晴を竹田城主にそれぞれ命じた。桑山重晴は後に和歌山城に転封となり、替わって但馬出石城に前野長康、付将として豊岡城に明石則実、八木城に別所重棟、そして秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が竹田城の城主となる。赤松広秀によって現在の竹田城が完成される。
〈関ヶ原の戦い
最後の城主である赤松広秀は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。
東軍の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(160012月3日)鳥取真教寺にて切腹。広秀の居城であった竹田城には、亀井茲矩配下の山名豊国が入城した。その後江戸幕府の方針により、竹田城は廃城となった。
城郭
竹田城は、険しい地形にありながら、曲輪のすべてを石垣で取り囲んだ総石垣の城郭である。山頂に築かれた城郭としては最後の近世城郭にあたる。縄張りなどから類推して近世初期と考えられる。竹田城は山名宗全がこの地に城を築くよう命じ、羽柴秀長が新しく縄張りを行い、その後の赤松広秀が文禄のころより豊臣秀吉の支援を受けながら、壮大な城へ仕上げたものと考えられている。安土城のような大規模な石垣構造をもち、虎口は枡形を有する。尾根の最高所に本丸を置き、その正面に天守台がある。本丸から三方向にのびて、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪という大きな曲輪群を有している。面積は18,473㎡にも及ぶ。石垣は穴太流石積み技法で、豊臣時代の山城に代表される遺構である。『ひょうごの城紀行』によると「竹田城は赤松広秀が三十代後半の働き盛りに築いた城ということになろう」としている。竹田城の特徴のひとつとして、北千畳曲輪、南千畳曲輪、花屋敷曲輪の3つの曲輪群の標高が331mとほぼ同じ高さに作られている。本丸の標高は351mになるので標高差は20mとなる。このことより、平面構成だけではなく立面構成にも高度な計算がなされ3つの曲輪群が計画的に配置されている。櫓の総数は天守を含め20基前後が推定されている。
天守
竹田城への天守台は登り口、石段や穴蔵が無い。天守脇にある付櫓かもしくは本丸にあった建物と連結して、その内部から階段等によって天守に登ったと思われている。天守台の大きさは10.7m×12.7mの規模で少しいびつな形となって、いくつかの礎石跡が確認する事ができ、柱間は6尺5寸の京間で建てられた事を示している。この天守台は城の中央に位置し、天守は山麓にある城下から正面にあたり、権威の象徴、見せるシンボルであったと考えられている。また天守台下の高見殿曲輪(本丸)には「本丸御殿」があったと推定されている。  ウィキペデイアより
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立雲峡
立雲峡(りつうんきょう)は兵庫県朝来市和田山町にある峡谷。円山川の川霧に覆われた幻想的な風情と雲海の美しさから名付けられたと云われる。西の古城山の頂(標高354メートル)に天空の城と呼ばれた竹田城跡(国の史跡)、眼下には山間を縫うように流れる円山川と城下町竹田を望む、朝来山(標高756メートル)の中腹に位置する。「おおなる池」、「竜神の滝」をはじめ、無数の奇岩・巨岩・滝が点在する景勝渓谷である。同時に但馬吉野とも称される山陰随一の山桜の名所で、毎年桜の開花期にあわせて立雲峡桜祭りが開催される。 展望台は三か所あり、いずれの展望台も竹田城跡を望むことができる。一帯は朝来郡山県立自然公園に指定されている。  ウィキペデイアより
布野眺め
布野町は太古の昔、沼地であったらしく「浮沼」がなまって「布努(ふぬ)」「布野(ふの)」へと変化し現在にいたったと伝えられています。「布努(ふぬ)」の名が歴史上最初に登場するのは、平安時代の和名抄においてですが山陽と山陰を結ぶ主要な交通路・宿駅として現在まで栄えてきました。戦国時代には毛利と尼子がしのぎを削り、日本地図を作製したことで有名な伊能忠敬も雪多い冬の布野にその足跡を印しています。江戸時代には、石見銀山からの銀の道として、明治時代には日本唯一の官営製鉄所「広島鉱山落合作業本所」が北部横谷に置かれ、三万余の人々が生活を営んでおりました。陰陽の連絡地として栄えた様子は、山代巴作「荷車の歌」の舞台となり劇中生き生きと語られています。また、アララギ派歌人「中村憲吉」もこの地に生を受け、庄原出身で同窓である「倉田百三」と共に郷土に誇る先人です。「雪晴れの 大谷山にさわぐこゑ 何の毛物を 追うにやあらむ」中村憲吉  現地看板より
 
黒滝山
黒滝山は、奇岩屹立した山容を誇り、大久野島、大三島をはじめとする芸予諸島や四国連山の眺望に恵まれた景勝地で、忠海町のシンボルとして町民に深く愛されている。この黒滝山の歴史は古く、天平年間(730年頃)、厳島神社参拝途上この地に立ち寄った和泉国の僧行基が、夢に「この地に霊山あり。その山に菩薩像を祭り、仏道をもって衆生を救うべし」とのお告げを受け、十一面観世音菩薩像を彫り、山頂に観音堂を建立して安置し、この霊山を黒滝山と名付けた、と伝えられている。以来、ミニ西国三十三カ所霊場や石鎚神社分社などが点在する霊場は、「くろたきさん」の呼び名で親しまれている。 現地看板より
 
御調八幡宮由緒
当宮は神護景雲三年(769)和気清麻呂直諫の罪により大隅に配流され姉の法均尼(和気広虫姫)は当地に流され、所持の円鏡に宇佐八幡大神を勧請して遥かに弟清麻呂の雪寃を祈願したことを創祀とします。宝亀八年(777)参議藤原百川がこの地に使いを派遣して社殿を造営、封戸を割いて社領にあてたとあり、これを社殿の創建としております。貞観元年(859)岩清水八幡宮創建以来、八幡宮総本宮として全国八幡宮を支配、当宮は中世から「備後国御調別宮」となってより「八幡の庄」と称したと記録されています。元歴元年(1184)源頼朝の再建、文治年間(1185~89)土肥実平の重修、観応年間(1350~51)足利尊氏の社殿造営と伝えられ、現在の社殿はことごとく近世浅野家による再建です。大正七年県社に列しました。宝物は国重文の狛犬一対、阿弥陀経等板木五枚、木造行道面・馬頭・獅子頭等十三面余の多くの文化財を所蔵しております。
御祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、武内宿祢命、比咩大神(田心姫命、市杵島姫命、湍津姫命)
平成十四年四月  御調八幡宮社務所   現地看板より
御調八幡宮奥宮・貴船神社
当社は龍王山に鎮座し、高淤加美神
(たかおかみのかみ)を御祭神とする。その創祀は詳らかではないいが、御調八幡宮創祀(769)以前より人々から龍神即ち祈雨の神として信仰されている。今でも、こんこんと清水を湧き出す御井戸を有する。御調八幡宮の奥宮として貴船神社と云う。その昔、神仏合祀神宮寺(廃寺)の奥の院として道明寺(廃寺)という関係から山岳宗教の形態がうかがえる。   現地看板より 
仏通寺の歴史
臨済宗佛通寺派大本山佛通寺は仏通寺川沿いの「佳き山水の地」を選んで建立された。そもそも佛通寺は、應永4年(1397)小早川春平公が愚中周及(佛徳大通禅師)を迎え創建した臨済宗の禅刹である。佛通寺の名称は、愚中周及の師である即休契了を勧請開山とし、彼の諡号(佛通禅師)を寺名にしたことを起因とする。小早川家一族の帰依を受けて瞬く間に寺勢は隆昌し、最盛期には山内の塔中88ヵ寺、西日本に末寺約3千ヵ寺を数えるに到った。しかし、応仁の乱の後に荒廃にむかい、小早川隆景の治世になってやや再興したものの、福島家そして続いて浅野家と権力者が変わるにつれて、しだいに当時の面影を失ったのである。しかし、明治期に入ると一転して法灯は大いに挽回され明治38年、初代管長の寛量思休禅師のもと臨済宗佛通寺派として天龍寺から独立復旧し、参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に到っている。   仏通寺HPより
 
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六社神社由緒(旧称 亀山六社權現宮)
祭神  伊邪那岐神 速玉之男神 大事忍男神 衝立船戸神 八衢比古神 八衢比売神
境内社 二宮八幡神社 大仙神社
往古(年代不詳)、紀伊国(現和歌山県)熊野神社の御分霊を迎え創建し、後に衝立船戸神社、八衢比古神、八衢比売神の塞神三神を合祀したと伝える。天正十九年(1591)甲奴郡上下郷翁山城主長谷部元連が本殿を再建する。元禄八年(1695)現在の本殿を再建する。この本殿は、三間社入母屋造で外陣吹放ちの江戸時代における備後を代表する本殿形式で最古級のものである。なお内陣には一間社流造の玉殿(神殿)を安置する。弘化四年(1847)現在の拝殿が再建される。明治五年(1872)社名を六社神社に改め村社に列格する。明治四十三年(1910)境内大荒神社を始め、村中無格社十五社を二宮に合祀する。昭和七年(1932)神饌幣帛料供進指定、村社(大祭に清岳村長・清岳小学校児童参列する)に昇格する。昭和二十七年(19852)宗教法人法による登記をする。昭和四十三年(1968)本殿屋根並びに二宮社殿を銅板葺きにする。昭和六十年(1985)境内に嶽山農業構造改善センター(社務所兼用)が設置され、平成三年(1991)境内改修事業を実施し、社頭の景観を一新する。
 
加藤武三之碑由来
大正元年広島市に生 昭和四十八年没
少年時代から山歩きを楽しみこよなく自然を愛しまたよく詩画をものにした。中国山脈の多くの山々に登り殊に西中国山地は足跡到らぬ山はなく中でも恐羅漢山周辺の四季の風物には特に魅せられ国定公園指定また国営スキー場関係には率先関係方面にはたらきかけてそれら計画の実現に異常ともいえる情熱を燃やし続けた。主な著書に「広島をめぐる山と谷」「緑の回廊」など山毛欅叢書十九巻の他日地出版の「帝釈峡三瓶山備北山群」「秋吉台三段峡芸北山群」「大山蒜山」等があり之らの案内所により開眼された登山者は数多い。常に安全登山自然保護をとなえた加藤武三の遺志を生かし諸彦の山行の無事を祈って此の碑が建てられた。碑面の詩内黒峠は遺墨である。謙虚に接して頂きたい。 山毛欅会同人  現地説明板より
 内黒峠 加藤武三
  歩きにくい山路を 四時間
  標高千米の内黒峠
  その頂に立って見はるかす 北の山波
  十二月の山襞には 緑が残っていたが
  もう小鳥のさえずりはない
  きびしい北風が 耳に鳴るのみ
 
龍雲寺仏像 釈迦牟尼如来坐像、迦葉・阿難像、十六羅漢像 岩国市指定文化財(1973.10.23)
臨済宗天龍寺派大慈山龍雲禅寺は創立が応永二年(579)四月四日開山は南溟運禅師(京都市嵯峨大本山天龍寺開山夢窓国司法孫)である。本尊は聖観世音菩薩であるが、このお寺に珍しく釈迦牟尼如来坐像と迦葉阿難、それに十六羅漢が安置してある。この仏像は作者は不明であるが各像とも極彩色が施され台座とも13世紀以降の大和絵の流れをうけた江戸時代の手法がみられる作品で市内では当龍雲寺、錦川流域では錦町の福田寺以外には見られない稀少なものである。今なお完在し、宗教的な行事(羅漢講式)を知るうえでも資料的な価値があるので上記のとおり文化財に指定した。 現地説明板より
岩国行波の神舞(かんまい) 国指定重要無形民俗文化財(1979.2.3)
室路町時代より京都地方で始まり、岩国方面に伝えられたといわれています。また、荒神神楽で豊後の国から現在の大島郡を経て、伝えられたともいわれる神楽です。もともとこの神舞は、神官が主に舞っていましたが、氏子も参加するようになりました。明治に入り神楽全部を氏子が習い、以後は氏子によって奉納される、里神楽となりました。神楽は荘厳・六色幸文祭・諸神勧請など十二座で、毎年十月中旬に地区の荒玉社で一部を奉納し、七年ごとに願舞年として、地区の錦川の河原でおよそ十五時間をかけ、十二座全部と八関が奉納されます。この神舞は、古い形がよく伝えられていることから、全国的にも大変めずらしいものとなっています。 平成十三年三月 岩国市教育委員会 現地看板より
 
高佐手人麿神社(人丸神社)
国道187号線南桑本町バス停前、河内神社境内左の山神社に相殿祭祀されている。もとは嘉永五年(1852)に石童山の中腹、高佐手に「火事・疫病除難」に勧請されたもので、南桑駅の上に移り、更に岩日線開通に伴って現在地へ三転された。次のような記録がある。
川向(吊橋の上)に人丸の小祠がある。もと高佐手という高原にあって旧暦八月十三日が例祭日で、神楽奉納などで賑わった。今は山の麓の川向いに神社を移し、七軒で講を作って新暦の四月十三日と八月十三日の二回お祭りをやっている。火納め神社といわれ、その昔高佐手に火事があったが、そこで止まった。八月にお祭をやるのは、夏の疫病が治るといわれているからでしょう。五里もあるところから毎月十三日に必ず参詣する人がある。(「人まろ信仰に就いて」庄司忠『岩国市並びに錦川沿線風土誌稿』1970所収)
岩日線南桑駅の山の裏の中腹にある。この社はもと近くの高佐手にあったが、後に南桑駅のそばに移り、更に岩日線が開通する直前、昭和三十年現地に三転されたものである。木造の鳥居の奥に社殿がある。元来日吉社の相殿であるが、社殿の棟札には「嘉永五年年八月二十日奉上柿本大明神」とある。」(「周防の人丸社」山村律次『山口県地方史研究』53号所収)
 
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玖波石鎚神社石鎚本教神田山(じんでやま)教会由緒沿革
石鎚神社の御祭神は天照皇大御神を生み給いし伊邪那岐命伊邪那美命の第二子であります。祭神は御一体でありますが三体の御神像を祀るのは大神様の御神徳を智・仁・勇の御穂として別けて表して居ります。大神様は神代より御鎮座でありますが頂上社(愛媛県西条市大保木西之川山に鎮座海抜一九八一米)成就社(愛媛県周桑郡小松町石鎚上黒川)本社(愛媛県西条市西田七九七)に御鎮座を致し此の三社を総称致しまして石鎚神社石鎚本教と申します。当山は昭和四十四年三月十六日右の神社より御神霊を御迎え申し上げ宗教法人石鎚本教神田山教会として発足し石鎚信仰の特殊性を以って修祓修行鎮魂を通し石鎚大神様の御神穂を感得世界平和の基盤と人類の精神の為四万五千平方米全域を信仰の道場として本山に習い山麓に本殿、頂上への道中に御鎖行場を設け一の鎖(十九米)二の鎖(二十三米)三の鎖(五十米)あり三の鎖を昇り詰め更に三百米坂道を昇ると神田山教会頂上社として延拝所があります。石鎚信仰者が集り敬神発揚する所として祭日は三月第三日曜日を春の大祭日、十一月三日を秋の大祭日と定めて毎月 日を月次祭として祭典を行って居ります。唯し毎日の日拝は日の出を期して拝礼祭を実施されて居ります。尚特別の諸祈願の場合は其の都度御申し立てに依り祈願祈祷を致します。 神田山教会町 敬白   現地看板より
嗚呼虎ヶ岳  作者 神心流 熊毛教場
観音滝水潤隠田 笠野水面柱松炎 嗚呼虎岳拝初日 常安晩鐘栗屋里
観音の滝や石垣に囲まれた隠田の棚田は虎ヶ岳登山道の途中にあり昔の面影を残しています。柱松は夏祭りの伝統行事で炎は笠野川を照らし夜空を焦がす夏の風物詩として受け継がれています。虎ヶ岳山頂より拝む初日はとてもすばらしく感動します。また麓にある常安寺は栗屋家の菩提寺で境内には晩鐘や樹齢三百年の桜の木があり見事な花を咲かせます。裏には栗屋家の十一代の墓碑が建立されています。 虎ヶ岳山頂の看板より
上ヶ原妙見稲荷神社 御祭神⇒稲荷社 倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、妙見社 北辰妙見大菩薩
神霊がいつの時代にこの地に鎮座し給うたのか、記録に乏しく定かではないが、稲荷社は私達の先祖がここに住みついたとき、産土の神として、また妙見社は天明~寛政にかけての天災の際、加護を祈願して勧請し奉ったもののようである。口碑によれば、昔の人々の生活は自然に密着したものであったから、きびしい天変地異の難を諸に受けしばしば難渋をした。しかし、その都度神の加護のもとよく耐え凌んできた。いわば昔の人々の生活に受難と克服の歴史そのもので会ったといえるが、その中で最もひどかったのは今から約二百余年前に襲った大飢饉であったという。断続的な凶作が数年に及び、その上疫病が大流行するなどで餓病死者が続出して、一時は人口が半数近くにも減るという惨状であった。このような受難のさなか時の畔頭(くみかしら)某は夢中に「われこそは北辰妙見なるぞ この地に天降りて民草の難を救わん」とのお告げを受けた。このことを村人に伝え総出で北辰妙見の鎮座加護を祈願した。まもなく、霊験あらわれ、凶作も漸く治まり疫病も枯れて、村里はもとの平穏な暮にかえったということである。因に妙見社石祠の扉裏面に、寛政八年辰九月北辰妙見社と刻まれてある。じらいこの神々は無病息災、家内安全、生業繁昌、惚封じに霊験あらたかとして世の人々の信仰も篤い。神殿等の修復昭和六十三年三月 (文責如海) 境内の説明板より
 
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久米島
沖縄本島から西に約100km、沖縄諸島に属する島で、最も西に位置する島である。人口は1万人弱で、行政上は島全域が久米島町に含まれる。面積は59.11km
2で、沖縄県内では、沖縄本島、西表島、石垣島、宮古島に次いで5番目に大きな島である。火成岩からなる島で全体に山がちではあるが、東海上には「ハテの浜」と呼ばれる全長5km以上ものサンゴ洲島が連なっている。水が豊富で、古くから沖縄県では米所として知られた。 ウィキペディアより
久米の五枝のマツ
久米の五枝のマツは、高さが6m、幹周りが約4.3m、枝が地面をおおう面積は250㎡にも及ぶリュウキュウマツです。18世紀初頭、土帝君(農業の神様)を祭ったときに、この地に植えられ現在に至っています。根が石を枕に地面に広がり、枝が波打つように地をはうその美しさは、天下随一といわれ、琉歌にもその美しさが歌われています。 現地説明板より
 
久米島の久米仙
久米島町に本社を置く日本の酒造メーカー。縄県内最大級の生産規模を誇る、泡盛の代表格。社名に「久米島の」と付けているのは、那覇市に「久米仙」を生産する久米仙酒造があるためで、両社は全くの別会社である。主力商品は「久米島の久米仙 ブラウン」である。 ウィキペディアより
 
宇江城城跡
久米島北部山系の標高310.4mの宇江城岳の山頂に築かれたグスク時代の城跡である。沖縄県内のグスクのうち最高所に位置する山城であり、久米島のほぼ全体を眺望できる。城跡の築城年代は記録がなく不明であるが、伊敷索按司(ちなはあじ)の長男である久米仲城(くめなかぐすく)按司が築いたとされ、第二尚氏尚真王の1510年(1506年説もある)に琉球統一の過程で滅ぼされたという。城跡は、山頂の尾根沿いに、最高所の東端部に一の郭を、その西側の一段下がった所に二の郭を、さらに下がって三つの郭を配し、その周辺に腰曲輪群、南面するグスク道(神道)の両脇に平場群を配する構造である。城壁の石積みは、一の郭の虎口(こぐち)部分周辺のみに珊瑚石灰岩の切石が見られるほかは、周辺で採れる板状の輝石安山岩を使用する。発掘調査によって建物跡等を検出し、出土遺物は、主に一の郭や二の郭で多く出土し、青磁の碗・皿・酒会壷等多くの中国陶磁器がある。このように、宇江城城跡は、久米島支配の拠点として、久米島全体を見下ろす山岳頂部に築かれ、多数の腰曲輪群と平場群を備えた堅固な山城跡であり、沖縄におけるグスク時代の政治・軍事の様相を知る上で貴重である。 HP文化遺産オンラインより
具志川城跡
具志川城跡は、海岸に突き出した石灰岩の独立した台地(標高25m前後)に築かれたグスクで、島外から来た真達勃按司(まだつあじ)によって築城された伝承をもつ。このグスクは四つの廓(曲輪)から成り、このうち二の廓(曲輪)には基壇築成の建物(舎殿)が建っていたことが判る。城壁の石材は、基本的には珊瑚石灰岩や琉球石灰岩を用いているが、板状の輝石安山岩と組み合わせた個所もあり、特徴的である。なお、石積み技法については切石積みや野面積みが見られる。これまでの調査結果から、元および明代(14~15世紀)の青花(染付)磁器や竜泉窯系青磁、中国華南産の黒釉など、中国を始めとした海外からの多くの輸入磁器をはじめとして、古銭、金属製品、あるいは地元産のグスク土器などが出土している。これらの遺物などから14~15世紀に築かれ、盛んに海外貿易などが行われていたことが判る。 現地説明板より
久米島分屯基地
第54警戒隊が配置されている航空自衛隊那覇基地の分屯基地である。久米島の北部の山地にある固定レーダーサイトであり、標高約290m。南西諸島中部や東シナ海の対空警戒・監視を任務としている。分屯基地司令は、第54警戒隊長が兼務。基地の一部はアメリカ空軍第18航空団が使用。
 ウィキペディアより 
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城岩  高さ 東側5m、西側9m、南側3m、北側11m  広さ 約30㎡(別名八畳岩)
栗栖氏(安芸)、福屋氏(石見)が戦った雄鹿原合戦の時、栗栖権頭が一時この岩を根拠地に陣を敷き「城岩」と呼ばれるようになった。岩上からは栗栖に相対する福屋勢が松明を並木に結びつけ大軍の偽装をしたといわれる俵原・牛岩の野も右手遠方に眺められ、眼下に雄鹿原集落の約7割が展開している。 現地説明板より
固完杉 目 通4.75m、樹高18.5m、推定樹齢400年
亀山八幡神社の初代宮司河野固完晴通の墓標樹で、「固完杉」と呼ばれている。晴通は河野家56代目で伊予国高縄域に生まれ、長曽我部元親との戦いに破れて慶長の初め(1596-1615)毛利輝元を頼り、その引き合わせで亀山八幡宮の祠官となった。荒神原村に山林田畑・米高25石5斗余を給与せられ、初めこの地中祖村神代原に住んだ。この老杉は、昔は触れると祟ると敬遠されていた。
 現地説明板より
今櫛山伝承
むかし大富山城に、照日姫といふ美しい姫がいました。永禄の頃(1558-70)のある春、姫は下女たちと連れ立って中野村の岩津山胎蔵寺に花見に出かけました。皆で花に見とれていると、若く美しい侍が近寄って来て、桜の枝に短冊をつけて差し出しました。東左近という名の侍は、姫に一目惚れしたのです。短冊には歌がしたためてありました。 『我が恋は岩津の山の桜花、言はず散りなんことの悲しき 東左近』 気品ある若者に恥らいながら、姫は歌を返しました。『思へども我も岩津の花なれば、さそふ嵐に散らざらめやは 照日姫』 以来、姫と左近は人目を忍ぶ恋に落ちていきました。ところがまもなく、父君のはからいで、姫は三河内村の双子山城に嫁ぐことになりました。姫は父君の言うままに嫁いではみたものの、左近のことが忘れられず、すぐに大富山城に帰って来てしまいました。それでも母君にさとされて、再び三河内村へ行くことになりました。その途中、姫は、朝日山の頂上の池のそばの弁天さまにお詣りしたいと言い出しました。一行が険しい山を登り、どうにかお参りをすませ、一息をついたすきに、姫はそばの池に身を投げていました。突然、雷雲が起り、あたりは暗闇となって大雨を降らし、池の水が空に巻き昇って大蛇が姿を現しました。下女たちは、ある者は逃げ出して山を転げ落ち、残った者はその場で気絶しました。明くる日、池の辺には姫の櫛だけが残されていたと云います。このことから、朝日山は、今櫛山というようになりました。 HP「歌語り風土記」より
三つ子山城跡
主であった三河内氏については、天文年間(1532-55)の初期には当地比和の武士団として活躍していることが知られる。そして、城主は三河内通忠と、その息子通高が在城したといわれている。また、『久代記』によると、三河内氏は東方の大富山城の宮氏に属し、数々の合戦に参加していると記録されているが、別の史料では、山内氏の家人でもあったとするものもある。彼は大変に用心深い人物だったようで、城下に客人が来ると、絶対に当城の本丸には登城させず、自ら城下まで下りて対応したという。それほど当城の様子を他人には知られぬように徹底していたから、「無敗の武将」とまでいわれたのだろう。恐らくこのことは、三子山城が一時的には山内氏の東方(地毘荘)侵略の結果、支配下にあったことをしめすものと思われ、備北国人領主として、宮氏と山内氏の狭間で同氏が一族延命のためにとった策と推定される。三河内大膳通忠が戦勝を祈願して踊った「刀踊り」と、凱旋の後や祝事の折に舞ったとされる「扇の舞」が郷土芸能として保存されている。 ブログ「西国の山城」より
神上(こうのうえ)神社由緒 祭神⇒神武天皇、天照大御神、月読命
神倭伊波礼毘古命(神武天皇)は遠大な建国の御計画のもとに、舟師(ふないくさ)をひきいて日向高千穂を進発され長い年月と幾多の辛酸を経て大和を御平定、橿原宮において我が国初代の天皇として御即位になった。この神上の地は、天皇が日向御進発の当初、海上の遭難によってお立寄りになり、半年の間お過ごしになった行宮であり、御東行の途次、暫く安らかに憩われ、深くみこころに留め給うた聖跡である。
天皇は、日向より筑紫国を経て海路内海を御東行中、周防灘に至り思わぬ風波に御遭遇、北の方へ吹き寄せられたので、ほど近い小島(竹島)にお舟を留められた。この時天皇は御舟酔甚だしく、島の対岸に漕ぎ入れてお休みになった。里人は種々の薬草を献じ御快癒をお祈りした。これを含まれると忽ち御快くならせられ、「我心たいらかなり」と仰せられ、里の名を「たいらの里」(平野)と命名された。さらに、波音のきこえぬ地でお休みのため、水際伝いに進まれると里があり、此の処の石に御腰をお掛けになるうちに夜が明けた。この地は海上より微かな光を見た吉兆の地であり、微明(見明)という。ここより山の麓をおのぼりになると、谷水の音が幽かにきこえる静かなところ、彼方に黒髪島,仙島などが夢のように浮ぶ瀬戸の海を眼下にした絶勝の小高い丘にお着きになった。ここに假宮の御造営を仰せられた。天皇は近い高根に登って四方の地勢をご覧になり御東行の道を御案じになった。この時、四匹の熊が地に伏し額いたのでこの山を「四ッ熊の峯」(四熊嶽)と名付けられた。およそ半年、この假宮で態勢を整えられた天皇は、「御舟は海の上を経よ、我は陸地を行かん」と仰せられ再び御進発、安芸国・吉備国を経て遂に大和へお入りになり建国の鵬図は成った。
天皇は、この神上の地に深く御心をお留めになり、御出発にあたって「朕何国ニ行クトモ魂ハ此ノ假宮ヲ去ラザレバ長ク朕ヲ此ニ祀ラバ国ノ守神トナラン」と宣らせ給うた。里人等はその御旨を畏み、假宮の地に祠宇を建立し、「神上宮」と称して斎祀し奉った。  現地看板より抜粋
 
大慈母観音立像由緒
瀬戸内海国立公園を一望に見下ろす景勝の地、法師ヶ岳山頂で、優しくその胸に子供を抱いて、周南の人々を包み込むような慈愛の眼で見守る大観音像は、徳山国際カントリー倶楽部理事長尾崎正味氏が、子育て・交通安全・無病息災と人々の安らぎと平和を祈願し、万感の思いを込めて建立したものである。台座下の壁面の太陽電池パネルは、通産省傘下の「新エネルギー産業技術総合開発機構」との共同研究事業で、太陽光発電システムとして、限りある石油資源に変わる、未来のクリーンエネルギーの主役としての夢をになっている。この「愛」と「夢」の合体は、私たちに人間の生命の尊さ・思いやりの心の大切さを永遠に訴えるものである。 平成八年四月吉日 記念碑建立発起人一同  現地記念碑よ
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敷山城跡 昭和十年(1935)六月七日国史跡指定 防府市牟礼(矢筈ヶ岳)
鎌倉幕府を倒した後、後醍醐天皇が行った親政(建武の新政)は朝廷や公家を重視したもので、武士の間に不満が高まっていた。このような情勢の中、足利尊氏は建武二年(1335)に武士の政治を再興すべく挙兵した。以後約六十年にわたり吉野(奈良県)と京都に天皇を擁して戦う南北朝の戦いが続いた。戦いの当初、尊氏は一度は敗れ九州に逃れたが、兵を集め勢力を得て再び京都へ攻め上がった。長門・周防国の有力な武将はその多くが尊氏側につく中、周防国府の役人である小目代の摂津助公清尊(せっつのすけきみせいそん)、検非違使の助法眼教乗(すけのほうがんきょうじょう)は後醍醐天皇側につき、大内弘直、小笠原長光らの武将や周辺の多くの人々とともに延元元年(1336)七月、験観寺(けんかんじ)を城として挙兵した。この験観寺は鎌倉時代中期の創建で、十二の僧坊を持つ、周防国府や東大寺ともつながりのある寺であった。尊氏は挙兵によって九州と分断されるのを恐れ、ただちに彼らを一族の石見国守護上野頼兼に攻撃をさせた。清尊や教乗は奮戦したが大軍の前に敗北し、七月四日に戦死した。毎年八月には、地元の人々によって慰霊祭が行われている。 平成十八年七月 山口県教育委員会・防府市教育委員会  敷山城址参道の説明板より
敷山験観寺本堂跡
ここは、敷山験観寺寺坊跡十二ヶ所(俗に十二段と呼ぶ)のうちの最上部、本堂跡で、方形に巡らした石垣や礎石は、完全な姿で残っている。この山は矢筈ヶ岳と呼び、皆伐460㍍、花崗岩から成り立っており、験観寺跡はこの八合目に位地する。 昭和六十一年三月 府中市教育委員会  現地説明板より
道川城跡
前方の匹見川を挟んで突出する山地が道川城跡である。その城跡は標高約490mを測り、北東-南西方向に走る尾根筋伝えに四つからなる段上で築かれている。主郭は最上段部に設けられ、その北東部端は深く落ち込んでいて、そこには三条からなる堀切りで堅固している。本城は室町初期、大谷盛胤の後裔が拠っていたという伝承があり、その後は斎藤伯耆守保(康)家が居城していたらしい。また正長元年(1428)には吉見氏家臣の長野美作守(美濃守)頼久に占領されたともいわれ、北東側の山下には「ドイ」の地名があって居館があったらしく、その山裾には彼らの墓も数基みられる。 益田市教育委員会   現地説明板より
 
周防春日神社 祭神⇒武甕槌命、斎主命、天児屋根命、比売神
約八百年の昔、藤原氏ゆかりの官人周防国庁に下向に当たり、その祖神、奈良春日社の分霊をお祀りして、文治年間俊乗坊重源上人阿弥陀寺建立に当たり再建したと伝う。  現地説明板より
東大寺別院 周防阿弥陀寺
文治三年(1187)東大寺重源により、東大寺の周防別所として創建されたとされる寺。阿弥陀寺の住職は周防の国司の任にあたった。文明十六年(1484)に焼失したが、大内氏の援助を受けて再興されている。かつては多くの搭頭(たっちゅう)を有していた。東大寺再建のための木材伐り出しに従事する人夫たちのため、重源が設けたと言われる石風呂が文化財として残っている。また、後代に造られたもうひとつの石風呂があり、毎月第1日曜日には石風呂が焚かれるため、一般入山者でも有料(薪代)で入浴することができる。  ウィキペディアより
周防国祖をもって奈良東大寺再建の命を受け、佐波川上流地方の巨材を採伐し、その使命を果たした当時の大徳造東大寺勧進兼周防国司職、俊乗房重源上人が後白河法皇の現世安穏祈願のため建立したもので、文治三年(1187)開発、建久八年(1197)竣工その後文明年間まで約三百年の間、住職はいずれも勅命をもって拝任、周防国務管理を兼ねていたという県下切っての由緒ある名刹である。国宝、鉄宝塔・重要文化財、重源上人自作と伝えられる座像・東大寺再建の用材に押した槌印(国威と称する)阿弥陀寺領田畠注文免除状一巻、金剛力士立像二躯が所蔵されている。  防府市・防府市観光協会  現地説明板より
阿弥陀寺の湯屋
鎌倉時代の初頭、東大寺大仏殿の再建のため周防国に派遣された俊乗房重源上人は、阿弥陀寺の創建にあたり念仏の道場と湯を浴び身体を清める湯屋を建てました。当時の湯屋は医療を目的とする施浴の施設でもありました。阿弥陀寺の湯屋は建久八年(1197)建立の鉄宝塔の銘文や正治二年(1200)の古文書にもその名が見える由緒あるものです。阿弥陀寺は戦国時代に衰えた後、江戸時代になって伽藍を復興する気運が高まり、その一番手として延宝年中(1673~1681)に湯屋が再建されました。内部にある切り石の風呂屋形は、この時代のものです。その後、風呂屋形は一部崩れながらも洗い場としてそのまま使い続けられてきました。外部の木造の覆い屋は何度か建て替えられ、現在は、釜場、洗い場、脱衣室の3部からなる建物となっています。この湯屋は、中世からの施浴の様式をうかがえるものとして、昭和47年に国指定重要民俗資料(旧種別)に指定されました。湯浴みは、今でも7月の開山忌に行われています。覆い屋の外に突き出た石水舟に溜めておいた水を、竈の鉄湯釜に入れて沸かし、鉄湯釜の湯を洗い場の石湯舟にひしゃくでくみ入れ、それを洗い場で浴びる「取り湯」という方式です。ただし、現在、洗い場となっている切り石の風呂屋形は、湯釜の湯気を引き込む密室構造になっていたと考えられており、もとは蒸気風呂として使われていたとも推測されます。平成12・13年の解体修理で、風呂屋形の石の欠失した部分を木材で補い復元しています。石湯舟と石水舟には、文政3年(1820)の年号が刻まれており、この修理で取りはずされた鉄湯釜にも文政11年(1828)の年号が刻まれています。この文政の鉄湯釜も、鎌倉時代の湯屋のものと伝えられる旧鉄湯釜と旧鉄湯舟(残欠)とともに当寺に保管されています。なお、この修理にともない発掘調査を行い、創建当時に旧鉄湯釜を据えたと考えられる竈の跡か発見されました。  平成13年11月  山口県教育委員会・防府市教育委員会  現地説明板より
 
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ブッポウソウ
ブッポウソウは、コウノトリなどについで、2番目に絶滅の危機が高いとされる「絶滅危惧IB類」に環境省が指定する、日本に約600つがいしか生息していない稀少な鳥です。(広島県には、日本の約半分以上にあたる300つがい以上が生息し、三次市には、そのうち約180つがいが生息しています。共に日本一の生息数です。)
ブッポウソウは、全身が光沢のある青緑色で、薄水色の斑紋がある光り輝く瑠璃色の翼と、赤い大きな口ばしと足が目立つ美しい姿のため、「森の宝石」と呼ばれています。また、その美しい姿から、1000年以上昔から、霊鳥(神の力が宿る鳥)として人々に崇められてきました。 三次市作木町自治連合会  現地説明板より
 
作木殿敷(旧庄屋屋敷)
殿敷(とのしき)、三上家の由来はその昔、南北朝時代文和年間(1352-1356)の頃、三加美安房守の藤原勝文という侍が奈良より下り、佐和肥後守の来賓として当所西田五原山に城を築き、東西5里余り(20キロメートル四方)の地を領した。(西田五原山は島根県赤来町井戸谷と見られ、そこには小原山、別に城山といわれていたところが現存する。西田屋という地名も見られる。)この藤原勝文は田原藤太秀郷の後胤とあり、系譜ははっきりしている。南都より西国落ちのとき、氏神として春日神社の像を懐に下ったと当所、岡三淵の春日神社の旧記に記されている。この安房守の4代目蔵人益勝は文亀年間(1501-1504)に、石州高根城主によって滅ぼされ、その一子千代丸が母と共に落城して当所猪臥(いぶせ)の岡に住み、成長してその名を右京重勝と名乗った。母は尼となって住み、この丘を比丘尼ヶ城とも殿鋪(とのしき)ともいい、当家の元祖となった。以来五〇〇年の歴を刻む。(殿敷系譜書による)  現地説明板より
小説「荷車の歌」
物語はここ「殿敷」に奉公するセキと郵便配達の茂市の出合から始まる。茂市と結ばれたセキは因習と苦難に耐えながら、赤名峠で明治、大正と荷車を引く。モデルは日野トシ、作木町森山生まれ。作家山代巴は一途に生きたイシさんの語りに心をうたれ、「荷車の歌」を(1956)書き上げた。協力 山代巴文学研究所  現地説明板より
 
女亀山
女亀山は、広島・島根の県境に位置し、標高830mの玄武岩丘である。山頂付近はブナなどの落葉広葉樹が残っており、このため昆虫相をはじめとする動物相が豊かである。特に鳥類の生息地、繁殖地及び中継渡来地として好適な環境となっており、貴重な地域である。山頂からの展望もよく、晴れた日には、大山、三瓶山、琴引山などの山が望める。また、女亀山は古くから神聖視された山であった。「芸藩通誌」に「女亀山池 岡三淵村にあり 池は頂にありて四時水涸れず 神亀 これに居る 里人雨を祈るに池中に杭を立つと云ふ」とある。山中には雨乞池と称する池があり、古来干ばつに際し、郡内一円から農民が集り、雨乞いの祈祷をしたという。この池は、今では決壊したらしく、その跡をとどめない。  女亀山山頂の現地説明板より
 
丹塗箭神話と女神神社
女亀山(めがめやま)(女神山)に住む玉依姫は、赤い一筋の矢に姿を変えた大山咋(おおやまくい)に触れて加茂別イ雷命(かもわけいかづちのみこと)を身ごもりました。そして、赤穴山(あかなやま)(篝丸山)で出産し、箭降森(赤穴八幡宮)にお鎮まりになりました。この丹塗箭神話は、赤穴八幡宮の創建神話としてこの地域に伝えられており、赤名という地名のもとになったとも言われています。加茂別雷命の誕生を祝った「祝が原」、玉依姫が機織をした「織野」、丹塗箭が飛んできた「来箭谷(栗屋谷)」などこの神話に由来するとされる地名、山などの名称が現在も三〇か所ほど残っています。女神神社は玉依姫を祀る神社で、その創建年代は明らかではありませんが、もと女亀山山頂に鎮座していました。昭和六年に女亀山中腹に移され、さらに昭和二十三年にこの近くの山に鎮座する北野天満宮境内に移されていました。先祖の素朴な思いと地域文化の一つとして伝承しようと、二つの神社は、平成二十三年八月にここへ移されました。北野天満宮には安永三年(1744 江戸時代中期)の棟札が残っています。 飯南町 現地説明板より
 
赤名峠国境の碑
広島県と島根県を結ぶ旧国道の赤名峠は、昭和三十九年(1964)に赤名トンネルが開通するまで冬季は積雪が多く交通の難所でした。古くは、旧藩時代の広島藩が定めた規格七尺の道幅で、石見銀山から銀や銅を大阪に運んだ銀の道です。国境を示す標柱は当初木柱でしたが、享保五年(1710)に石柱に立て替えられ、更に天保三年(1832)の藩名変更に伴い広島で新調し現地で取り替えられました。それまで出雲路と呼ばれていた街道は、明治九年(1876)に県境改修工事で三等県道になった時から出雲街道と改称されております。時を経て明治二十年(1889)県道改修工事の際、碑は旧横谷村瀬戸八幡神社へ移されました。以後百二十年にわたり神社境内に保管されていましたが、天保三年に再調した一基を、布野町民が進める「まちづくりビジョン」に基づく出雲街道整備の一環として、平成十九年六月二十四日現在地に移設復元しました。なお、享保五年に作られた初代の石碑は、赤名トンネルから広島方面へ約四キロ下がった地点の八幡神社境内に保存しております。平成二十年から、毎年四月下旬に布野町と飯南町の有志がこの地に集い、国盗り綱引大会を開催しています。 布野町まちづくり連合会 現地説明板より
 
野見野 - 野見宿祢(のみのすくね)ゆかりの地 -
「日本書紀」に垂仁天皇七年(前23)、当速蹶速(たきまのけはや)と野見宿祢が力くらべをして野見宿祢が勝ったという相撲の起源説がある。この野見宿祢は出雲国造(いずものくにのみやつこ)の一族で、このあたりが領地であった。一説ではこの野見の地を出雲臣(いずものおびと)の一族のヌミ(野見)氏が支配し、その直系(スクネ)であることから、野見宿祢と称したとも言われる。 現地説明板より
 
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駕籠建場
駕籠建場は、街道を行く大名たちが駕籠を下ろして休憩した場所で、多くは見晴らしの良いところに設けられ、施設として駕籠を置く台、柴垣、雪隠(便所)、腰掛などが設けられていました。防府市域には佐野峠のほかに同じ山陽道の浮野峠、茶臼山や萩往還の鯖山峠にも駕籠建場があったといわれています。この佐野峠からの美しい眺めは、江戸時代「山陽道第一の佳景」と書いた太田南畝をはじめとする多くの文人たちに称賛され、広く知られました。江戸時代末期に萩藩が編纂した『防長風土注進案』にも「中国路随一の見晴し能き所なり」と記されています。 現地説明板より
 
旧国幣社 玉祖(たまのおや)神社由緒
周防国一ノ宮として由緒深く御祭神は三種の神器の一つである八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を造られた玉祖命(たまのおやのみこと)であります。玉祖命は五伴緒神(いつとものおのかみ)の一柱として中国地方を治められ、ここ大崎の地で歿せられたと伝えられ社殿の北、約五百米にある玉岩窟(たまのいわや)はその墓所と云われています。神社の創建はあまりにも古く定かではありませんが、景行天皇十二年西征にあたって戦勝祈願のため宝剣を奉納されたものが今も御神宝として伝わっております。仲哀天皇・神功皇后も西征の折ご参拝になり、今の佐野焼の始祖と云われる沢田の長に三足の土鼎と盎を作らせ米を炊き捧げられ、また軍の吉凶を占われたことに起因すると云う占手神事(うらてのしんじ)も昔ながらに伝えられ厳かに執行されております。玉は洋の東西を問わず美しく尊いもので平和のシンボルとされていますが、四月十日の玉の祭りには全国各地から宝石・眼鏡・時計・カメラ業者が参拝しており、玉の祖神としてまた平和の神として崇敬されております。防府市・防府市観光協会  現地説明板より
黒柏鶏(くろかしわけい) 国指定天然記念物(昭和26年6月9日)
黒柏鶏は長鳴鶏(ながなきとり)に属する日本古来の鶏で、鳴き声も七、八秒から長いものでは十秒に達する時もあります。「黒柏鶏」の名前が示すとおり羽毛は全身黒で、脛やくちばし、足、爪も暗鉛色です。雄の耳朶や鶏冠は赤いですが、黒が混じることもあります。雌の鶏冠はほとんど黒くなります。黒柏鶏の由来や系統については同じ長鳴鶏の品種である「小国」、「唐丸」とのつながりやヨーロッパ系統の関わりなどともいわれていますが、現在でも詳細はわかっていません。しかし明治以降、多くの日本鶏が姿を消した中で、黒柏鶏の存在は貴重であるといえます。山口県・島根県で地域を定めない形で指定されており、防府には玉祖神社をはじめとして市内数ヶ所で飼育されています。平成二十二年七月七日 山口県教育委員会・防府市教育委員会  現地説明板より
 
玉祖神社樹林 自然記念物(昭和61年3月31日)
本樹林は、暖帯に発達している照葉樹林の自然植生を示しており、樹林内には、スダジイの高木層、モチノキ、クロキ等の亜高木層、イヌビワ、タブノキ、アラカシ等の低木層及びアリドオシ、カクレミノ、センリョウ等の草本層で構成されています。また、本県では唯一のキシュウナキリスゲの産地であり、学術的価値が高く、住民にも親しまれています。この地域内における樹林の伐採、植物等の採取及び土地の形状変更などの行為をするときは、届出が必要です。詳しいことは、山口県自然保護課又は山口県防府林業事務所に御連絡下さい。なお、この樹林を良好な状態で保存するために、たばこの投げ捨て等をしないよう御協力下さい。  現地説明板より
 
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野呂山登山道・歴史コース
野呂山登山道・歴史コースは、弘法寺の参詣道でもあります。そのため、コースにはたくさんの歴史資料があります。三本松公園から弘法寺までは「野路山八十八カ所」となっていて、コースには10ずつを1カ所にまとめた札所が設置されています。三本松公園から順に、岩地蔵札所、桂谷不動岩札所、夫婦休み札所、かん千岩音札所、毘沙門岩札所、釈迦岩札所、勢至岩札所、阿弥陀堂札所があります。また、このコースには、登山道入口(国道185号付近から)弘法寺まで一丁(約110m)ごとにお地蔵さまが立っていて、登山道の道案内をしてくれます。三本松公園は登山道の中程にあたり、ここから少し上ったところに弘法寺から十八丁(約1.98㎞)の位置を示すお地蔵さまがあります。  現地案内板より
 
弘法寺の由来
弘法大師は第四十九代光仁天皇の寶亀五年(774)六月十五日讃岐国屏風浦(現在の善通寺市)に御誕生御年十九才にして四国中国東海道伊豆桂谷山修善寺等各地の山岳に登られ求開持の秘法を修め難行苦行を重ね仏道に入り修道を極め偶々芸州厳島弥山に杖をひかれ帰路瀬戸内海にそびゆる野路山に登り岩屋に籠り(現在の奥の院)修業に専念されたとあり延暦の末遣唐使に従い入唐青龍寺の高僧恵果に密教を学ぶこと三年余帰朝して普く諸国を巡り真言秘法を説き大同二年(807)平城天皇の勅命によって真言宗を開宗せられ弘仁三年(823)春御年四十九才の時再び野路山に登られたその事蹟に鑑み地元中切の住民は広く有志と図りこの地に伊音城大師堂を建立した本尊大師像を祭り月の二十一日を命日と定め毎年高野山龍泉院勧行あり中切の百姓二人づつ相詰め燈明供養したとあり当時法印の奉献せる石燈籠一基現在せり(天明八年)過去千余年間大師堂は幾度か再建され今日に至っている。  現地説明板より
広・四日市街道
広町の多賀谷橋を起点に、石内を通り、郷原、黒瀬、西条に至る広・四日市街道は、通称「旧広・黒瀬街道」という名で親しまれています。広から登ってくる急な坂道は「大根坂」と言われ、「大根坂峠」を境に南側は広町、北側は郷原町となっています。また、この大根坂には江戸時代に敷かれたと伝えられる石畳が一部残っています。「大根坂峠」は、江戸時代に開墾されました。天保年間(1830-1843)には、街道筋に当たるため交易も盛んで、2月と8月頃に牛馬市も開かれ、大勢の人々でにぎわっていたようです。この街道について、文政二年(1819)の郷原村国郡志御用書出帖には「広村より四日市(現在東広島市西条町)へ通路、東市飯田村境より西広村境まで36町38間。大根坂峠6町上り易く8町下り嶮しく」とあり、また広村国郡志御用書上帖にも「四日市へ通る道なりと」記されています。このことからも、当時の広村と郷原村、黒瀬地区との人々の往来の様子がしのばれます。またこの「大根坂峠」には、昔は一本松があり、郷原村と広村の境界とされていたと伝えられていますが、現在の観音堂あたりと考えられています。呉市  現地説明板より
 
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安蔵寺山
西中国山地国定公園に位置し、島根県内では標高1263mで最高峰である。平安末期、人里離れたこの山中で密教仏道を修行するため、修験場を設けていたと伝えられる。山頂北側約50m下方に平坦地があり、現在も飲用できる山水が相当量湧き出ているが、そこに「安蔵寺」あったと思われ、現在「寺屋敷跡」と呼ばれている。修験者達は峰づたい、谷づたいに「山岳回峰修行」を修め、途中の集落の民衆より施物を受け、伝説を様々残している。また、修験者達は、木仏像彫塑を礼拝していたと思われ、現在800年経過の作と思われる仏像が鎮蔵寺と安見竹松氏宅の2箇所に計4体保存されている。 環境省・島根県  奥谷登山口駐車場の説明板より
なお、桑原先生は、寺屋敷跡に礎石などが見られないことから、その伝説ははっきりしないとされて、石田春律著「石見八重葎」(1816)の「阿増地山」の記述を引いて、鹿足郡と美濃郡の郡境の山であることから畦地山(アゼチヤマ→アゾチヤマ)が由来ではないか結論されている。
 
 大森八幡神社  祭神 帯中津日子命、品陀和気命、息長帯日賣命
帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)は、第十四代仲哀天皇(四世紀終り)の和名である。父は日本武尊で、足中津彦命とも記されている。タラシ系の天皇で、三輪王朝(奈良県三輪山麓の北西部に宮居)。九州征伐の時、香椎の宮で亡くなられた。品陀和気命(ホムダワケノミコト)は、第十五代応神天皇(四世紀終り五世紀初め)の和名で、父は仲哀天皇母は神功皇后である。譽田別命とも記されている。御幼少の頃更の名を大鞆和気命とも去狭沙別命(イササワケノミコト)とも申し上げる。ワケ系の天皇で河内王朝(大阪府南河内に宮居)。この時代に新羅の国から論語千文字や灌漑、機織、鍛冶、酒造などの大陸文化技術を盛んに取り入れた。息長帯日賣命(オキナガタラシヒメノミコト)は、神功皇后の和名で、仲哀天皇の后として、勇武の誉れが高い物語が残されている。また息長足姫とも記されている。この八幡宮が豊前之国(大分県宇佐市)の宇佐八幡宮より、お守御幣串を勧請された、用命天皇二年は、西暦五百八十六年に当り、飛鳥時代であった。因みに第三十一代用命天皇の第二皇子として、奈良明日香村の宮殿(当時の)で誕生されたのが聖徳太子である。以上の出典については、古事記(和銅五年(712))日本書紀(養老四年(720))並びに日本神話研究家諸氏の説による。本社は、私達の祖先が、遠い古から営々として、この地方の郷土を開発し、当時から、天災、人災、悪疫、など、あらゆる困難の状況の中で、守護神を祭り、生命財産の安泰、生産物の豊作を願い、郷土の繁栄と平和を希求し、天神地祇を敬い、畏れ、罪、穢、邪を忌み、ひたすら人の心の清浄からんことを念じつつ、奉祠参拝し、信仰してきた。長い歴史の間、時として外部の情勢や、時代の流れから「戦いへの鼓舞もあったが、今こそ、郷土の安全、五穀豊穣、産業の発展と、真の平和、和合の営みを祈念し、祖先伝来の守り神として崇敬するものである。 現地説明板より
船通山神話伝承
日本書紀に素戔嗚尊は、五十猛神とともに埴土で舟(土船)をつくり、鳥上の峯(船通山)に降臨したと記載されています。そして、ここがヤマタノオロチ退治の舞台となりました。船通山八合目あたりにある「鳥上滝」は、ヤマタノオロチが棲んでいたとされ、斐伊川の源流となっています。山頂に並ぶ円錐形の山を「家内住山(かないずみやま)」といい、テナヅチ、アシナヅチの家族が住んでいたと伝えています。亀石登山道の谷を「亀(甕)石谷」と呼び、ヤマタノオロチに飲ませた石の甕が置かれた場所とされ、酔いしれたヤマタノオロチをスサノオが斬り、谷を流れる川が真っ赤に染まりました。このため、この川を「赤川」と呼ぶようになったといいます。このように、船通山周辺は、神話発祥の地として、スサノオのヤマタノオロチ退治にかかわる物語が数多く語られています。 現地説明板より
 
和田八幡宮の青面さん
いつの時代からの伝えか詳らかでないが、和田八幡宮では四年毎に「大元祭」と称する祭事が行われている。子歳、辰歳、申歳のそれぞれの秋祭りに合わせて、例祭の翌日に神楽を奉納して行われ、この神事にのみ、神楽殿にお出ましになる「青面武智の大神」俗に言う「青面さん」と称される木彫りの青面神が八幡宮に祀られている。白髭漆黒にやや群青を帯びた木彫りの面は、カーッと大きく口を開き、鋭い歯並びの奥から赤い舌を覗かせ、白眉の下から睥睨する眼は、神秘な威厳を備えている。古来の言い伝えによると、遠い昔、小田川の淵に降りられたとの事で、今、その淵は道路改良工事により姿こそ消したものの、この左下に「青面淵」と名づけられ、又、そのほとりには、青面田と称する水田が存在する。一説によると大神さまは疫病に対し霊験あらたかであり、悪疫が流行すると、この青面神をその地に一時奉還し、疫病平癒の祈祷が行われた由である。 現地説明板より
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毛利讃岐守元政、 宍戸元続前妻墓所 周南市指定史跡(平成三年五月十六日指定)
毛利元政(元就七男・右田毛利の元祖)は、慶長五年(1600)十一月の知行配付によって、三丘地方五ヶ村四千二百石の領主となりました。元政は三丘広末の地に居を構え、慶長十四年(1609)四月二十九日五十一歳で亡くなりました(法名・天徳性真大居士)。向って左側が元政の墓で、元政の子毛利元倶が建立したものです。また、右側は元倶の妻(宍戸元続の娘)の実母(元続の前妻)の墓で、織田信長の娘と伝えられています。 周南市教育委員会  現地説明板より
毛利元就公歯廟  周南市指定史跡(昭和四十四年三月三十日指定)
関ヶ原の戦いで西軍は敗れ毛利氏も防長二州に減封となり、当時三丘には元政公が来丘して領主となった。慶長八年(1603)が元就死後三十三年に当っていたので、絶えず身につけていた元就の歯を三丘広末の地に葬って父の冥福を祈った。 周南市教育委員会  現地説明板より
 
淡海道
江戸時代の文政の頃、三丘村広末の貞昌寺にいた客僧淡海和尚は、自ら率先して鍬を取り村民を励まし、島田川右岸の絶壁を切り崩して約2㎞の新道を完成させました。人々は最短距離で下流側に通行できるようになり、上流より運ばれてきた物資は、この区間は駄馬によって運ばれ、下流側の筏場で川船に積み替えられて、海まで輸送されるようになります。これにより、奥地の経済に活気をもたらし、人々は大いに恩恵を受けることとなりました。天保元年に完成したこの道は『淡海道』と呼ばれ、現在も古道として残っています。  HP「周防国の街道・古道一人旅」より抜粋
 淡海和尚
淡海和尚は獺越(おそごえ)村白口(周東町)の生まれで、旧藩時代に山口・萩への裏街道として利用された奥長野の「クヅシ坂」の石畳道(文政九年・1826改修・コース外)など、各所に道の開拓改修の業績を残し、晩年は伊予国に赴いて没したといわれる(一説に帰国の途中死亡)。  ブログ「オ気楽ナ・・・毎日」より抜粋
周防三丘嶽城
築城年代は定かではない。大内氏の御番城といわれ城主については詳らかではないが、桂兵部少輔元親、三丘隼人之介、倉田治部大夫、井原四郎兵衛などが「防長風土注進案」にあげられているに過ぎない。桂兵部少輔元親は桂能登守元澄の三男。倉田治部大夫は三丘城山に城を構え元就公に敵対して攻め落とされたと伝えられる。井原四郎兵衛は安芸国鍋谷城主三尾四郎兵衛尉元尚のことで、萩藩閥閲録巻40井原藤兵衛の項33に「就高水城番之儀」云々とあり、三丘嶽城の城番を務めていたことが確認できる。三丘嶽城は島田川西岸に聳える標高318.8mの城山山頂に築かれている。 山頂から南北を主軸とする曲輪群と東下から北東へ連なる曲輪群、南に連なる曲輪群で構成されており、石積が所々に残っている。主郭は山頂にあり、北に一段、南へ三段の曲輪がある。南北を主軸とするこの曲輪群は巨石群を有効に利用した曲輪で、山頂の南にある石には建物の柱を置いたと見られる加工が残っている。主郭の東下からは北東に伸びた尾根と南の尾根に曲輪群がある。北東の曲輪群は北側に竪堀状に削り落とした竪堀と土塁がある他は、先端の堀切まで堀はなく、広い削平地が段々と連なっている。北東先端の標高270m付近に二条の堀切があり、城内側が深く、外側は浅い堀切になっている。その先は細尾根になっているのでこの辺りが北端と思われる。東下から南へ伸びた曲輪群は他の曲輪群に比べ石積が多いが小段が連なる。南端は薮が深く確認できていない。主郭の西下に小段と堀切が一条あるが、西の平家ヶ嶽に至る尾根は細尾根にはなっているものの、堀切などの防御施設はない。城山の南麓にある曹洞宗貞昌寺は三丘嶽城の大手門があった辺りともいわれ、関ヶ原合戦後に防長二カ国に減封となった毛利氏の家臣で、安芸国生城山城主天野元政(元就の七男)がこの三丘へ移ったときに居館を構えた所という。その後、元政は毛利姓に復姓して右田へ移り、替わって一門筆頭の宍戸広匡が三丘へ移っている。  HP「城郭放浪記」より
 
夫婦岩山
高さ麓より直立町数において七拾三間、周廻は峰尾続きありて詳らかならず候。この山を夫婦岩山と申すは、山の絶頂に高さ四丈周廻六丈位の大岩二つ並び、その間四尺余り離れ並び居候故、夫婦岩と申し候。この岩は高水大権現社境内山の内にして、高水社奥の院とも傳へ申し、又は、高水社熊野より勧請の節の影向石とも傳へ申し候。なかんづく此の岩の尊佛を大日如来とし、毎歳九月朔日を祭日として修験道快照院登山ありて注連縄をひき、祭式の執行御座候事。御領内において何そ妖災御座候節は兼日(けんじつ)此の岩鳴動(めいどう)御座候事。 防長風土注進案より熊毛郡清尾村風土記
 
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久喜銀山跡「水抜き間歩」
この間歩は、明治三十三年(1908)この上方の大横谷(おおよこや)間歩・肥前間歩・原間歩などの出水が多くなり採掘が困難となったため、経営者堀藤十郎により水抜きのために掘られた坑道である。この時大鉱脈が発見され久喜銀山の最盛期を迎えることとなった。明治三十五年頃には坑夫や鉱員・その家族など住人は二千人を超えていたといわれる。しかし、明治四十年には坑道上り口が水没して銀の産出量が激減し、明治四十一年には赤字経営となり、やむなく全鉱員を東出雲宝満鉱山に移動し久喜鉱山は閉山となった。昭和二十六年には中国鉱業(株)が鉱山の再開発を試みるが、おりからの銅価格の暴落により採掘を断念し現在にたっている。現在この付近には、多くの間歩(坑道)群や大規模な製錬所跡・山腹のレンガ積みの煙道・大量の鉱滓を捨てた「からみ原」など、あるいは山神社(さんじんじゃ)・神宮寺や多数の寺院跡など中世からの繁栄を偲ばせる多くの遺構が残されている。 平成十九年十二月 邑南町公民館連絡協議会・瑞穂文化研究会・久喜・大林銀山保全委員会  現地説明板より
 
久喜製錬所跡
この遺構は明治30年代に津和野の堀家が経営・操業した製錬所の跡です。明治36年発行の「雲石鉱山内容誌によれば、甲装直立焼鉱窯(乾燥窯)2基・甲装焼鉱炉(焙焼炉)20基・熔鉱炉2基を備えていました。設備としては送風用汽罐・汽機の他、発電用水者2基・送風用水車1基が備えられていました。ここでは、久喜・大林で採掘された鉱石を選鉱し、乾燥窯・焙焼炉で熱処理を行い、熔鉱炉で精錬し含銀鉛を抽出、型に流し込んで製品にしました。煙は約110mの地下登煙道を通し、山頂に設けられた高さ15mの煙突から排出していました。生産された型鉛は馬車で川本に運び江の川を下し、浜田港から送られました。  現地説明板より
 
山神社跡 祭神 大山祇神・金山彦神・金山姫神
岩屋の大志茂家文書によると「同家初代佐貫甚五右衛門利政は上総の人で、元暦元年(1184)源平合戦のとき、石見国に来たり、文治元年(1185)に石見の国下谷に住し、久喜銀山を見出し建久年間(1190-1198)山神社並びに神宮寺を建立す」とあります。その後山神社は永禄(1558-1570)元亀(1570-1573)の頃毛利氏が領した時、抜擢されて銀山改役・山組頭の要職についた同家14代佐貫小太郎までの佐貫家代々の当主や、元亀元年(1570)頃大横谷間歩を発見した小川惣助、慶長6年(1602)頃の大久保長安、万治年間(1658-1660)には新鉱脈を発見した松井善兵衛等、大森代官所支配の中で260年間守られました。また明治21年(1888)、堀家14代藤十郎伴成に久喜銀山が見直されると、15代藤十郎禮造による明治41年(1908)までの最盛期を見守り、820年余りの永きにわたり久喜銀山に関わる人々や地元住民に崇拝信仰されてきました。しかし、その山神社も、平成23年(2011)の豪雪のため倒壊、最近まで守り続けられた山田家と後木屋集落の方々に最後のお祭りで見送られ、同年5月16日にこの地より百石集落にある八幡宮へ合祀されました。  現地説明板より
智教寺天下墓
この墳丘は室町幕府第十五代将軍足利義昭の墓所と伝える。天正元年(1573)将軍義昭、織田信長と争い京都を追放され室町幕府滅亡、毛利氏を頼り備後鞆の津に来たり、数年滞在の後、毛利氏とも不和を生じ出雲の尼子氏を頼って山陰に向かう途中この地に病み山陰行きを断念、智教寺を建立して住すること数年、ここにて逝去、この地の住民地に墓を建て、天下墓と称す。(文政二年国郡志書出帳生田村に拠る) 平成二年十月 美土里町観光協会  現地説明板より
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帯掛明神と重り岩
芸州佐伯郡寺社には帯石とある。国郡志御編集に付下調書出張文政二年(1819)には岩倉帯石とある。岩の大きさ…下の岩 正面巾約2.5m高さ約3.0m奥行約2.5m、上の岩 正面巾約2.8m高さ約2.7m奥行約2.5m、上の岩と下の岩の接するところは僅か1mである。モミジの巨木…樹齢数百年を経ったものと推定、これを切ると祟りがあると恐れられている。
帯岩明神の由来 出雲の国から乳飲み児を背負って遥々厳島まで旅をして永住された市岐島姫(市杵島姫命とも書く)が此処岩倉のこの岩の所で休息され、幼児を背負っておられた帯をこの岩に掛けられたと伝えられる。以来この岩を「帯掛岩」と伝うようになった。そして市岐島姫命を祀って帯掛明神としたのがこの祠である。祭日は厳島神社の管弦祭の旧暦六月十七日に合して行われる。
伝説 昔ある年この地方に大地震があり、重っていた大岩が大音響と共に下の路に落ちた。岩が路をふさいだので翌日人夫が何十人も集って取り除こうとして来てみると岩は元どおり上に上っていた。霊験あらたかな明神の神通力で夜の間に数トンもの大岩が空中高く浮かんで元どおりに重なったのだと伝えられている。又、江戸時代参勤交替のため通りかかった津和野の殿様が「この岩は危険だから取り除く様に」命ぜられた。早速上から落としたが明朝来てみると再び元の所に戻っていたと伝えられている。
安永六年(1777)春頼山陽の叔父来万四郎(杏坪当時二十一歳)は父又十郎(惟清)翁に従いこの道を通って益田の柿本神社に参拝した。その時の紀行文「遊石稿」に末尾のような箇所がある。「路上に二石あり 頽然として相依る其の一は屹として聳え高さ三丈なるべし、一は則ち欹ち以て其上に跂つ僕をしてこれに登り 且 石状を詳にせしむ 石面夷にして坐すべし 毛骨寒慄す 石下に亭(茶店)あり憩はずして行く」
 
姫逃池(ひめのがいけ)
姫逃池は、男三瓶山の北麓、北の原草原の一角にあります。長者の娘が身を投げたという伝承がその名の由来とされ、周囲約300m、水深は最大1mほどの浅い池です。池には浮島が漂い、初夏にはカキツバタの花におおわれます。カキツバタ群落でできた浮島は珍しく、池周囲の群落を含めて県の天然記念物に指定されています。浮島はカキツバタの根が絡み合ってできたものです。現在はひとつが残るだけですが、北の原で放牧が行われていた1950年代までは浮島が幾つもあり、岸辺を歩き回る牛によって根の塊が切り取られ、水面を漂うようになったとみられます。北の原は山体崩壊の土砂が堆積してできた地形で、姫逃池は地表に形成されたくぼ地に水が溜まってできました。池は湿地化が進行している段階で、浅い部分にはヒメミクリなど湿地性の植物が茂っています。湿地で繁殖するハッチョウトンボが姿を見せることがあります。ハッチョウトンボは体長2cmほどで、日本最小のトンボです。  三瓶山webより
指書の名号(ゆびかきのみょうごう)
三瓶山ノ北麓(山口ヨリ志学ニ通ズル右側)老松ノ下ニ在リ、高サ五尺ノ自然石ニシテ正面ニ、南無阿弥陀仏ノ六字ヲ在シ、右側ニ建永十年トアリ、運筆ノ妙尋常ノモノニアラズ、傅ヘ云フ、明光上人指頭ニテ書セシモノナリト、故ニ通稱之ヲ『指書きの名號』ト呼ブ。上人ハ出家シテ親鸞聖人ノ弟子ト為リ、建永ノ初年布教ノ為メ中國ニ下リ備後ヨリ出雲ニ入リ、山口村ニ悲日山光林寺ヲ建立ス(同寺由来記ニ由ル)此時信徒の為ニ此石ヲ建テラレタリト  島根県安濃郡誌(島根県安濃郡役所 大正四年(1915)七月七日発行)の「名號石」の項より
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須佐高山の磁石石
須佐高山の磁石石は、昭和11年(1938)12月16日、国の天然記念物に指定されました。高山山頂(523.8m)の岩体は、堆積岩である須佐層群を火成岩の高山斑レイ岩が貫いたもので、今から約1500万年~500万年前にできたと考えられています。この斑レイ岩は須佐層群の600m~700mの範囲に接触作用を与え数々のホルンフェルスを形成しています。山頂付近の斑レイ岩は、強い磁気を帯びた学術的にも貴重な岩石で、「須佐高山の磁石石」と呼ばれています。磁気を帯びた原因については、斑レイ岩の中に磁鉄鉱成分が多いという説や、たび重なる落雷による説などがあります。 現地説明板より
須佐ホルンフェルス
須佐湾奥から北に5キロメートルほど進むと海岸沿いに見られる海食崖。須佐ホルンフェルス、または単純にホルンフェルスと呼ぶことも多い。ホルンフェルスとは変成岩の一種であり、マグマの熱などによって砂岩や頁岩が深成岩と接触変成したもの。2007年、日本の地質百選に「須佐ホルンフェルス」として選定された。「大断崖」ではあるが、断層ではないため、「大断層」の呼称は地質学的には誤り。畳岩は灰色と黒色の縞模様で知られ、一帯を代表する景観である。これは1400万年前に、砂岩と頁岩の互層が斑レイ岩マグマの熱によって再結晶化して生じたものである。 ウィキペディアより
 
須佐法泉寺・黄帝社奉納船絵馬
須佐宝泉寺・黄帝社奉納船絵馬は、山□県萩市須佐高山(こうやま)に所在する宝泉寺とその鎮守社として祀られている黄帝社に奉納された絵馬で、現在は萩博物館に寄託され保管されている。絵馬は海上安全を祈願した絵馬と、海上での遭難から救われたことを感謝して奉納された絵馬に大別される。宝泉寺と黄帝社のある須佐高山は江崎と須佐の港の中ほどにあり、絵馬はこれらの港に寄港した船乗りや船主たちによって奉納されたものである。宝泉寺および黄帝社には全部で67点の絵馬が奉納されているが、そのうち49点が船絵馬である。これらの絵馬の奉納年代は江戸時代後期から明治期に及ぶ。その中で最も古いものは、享和4年(1804)のものである。須佐高山は北前船の船乗りたちにとって航海の目印であっただけでなく、寛保元年(1741)書き上げの「瑞林寺由来書」(『防長寺社由来』所収)には黄帝社は「狗留尊仏(くるそんぶつ)黄帝小社(しょうしゃ)」と呼ばれて海上安全の神として信仰されたことが記されている。また、長州藩の編纂した『風土注進案(ふうどちゅうしんあん)』には高山に対して「沖行く船は帆を、下げて敬拝」する作法があったと記されている。絵馬の中には海上航行中に嵐に遭い難船しかかった様子を描いた難船絵馬が9点見られる。強風に遭い船が難破しかかると、船頭は積荷を海中に捨てて帆を降ろし帆柱を倒して難破を防いだというが、それでも難破を免れぬ場合には、乗組員は髷を切り、船霊や金毘羅など海上安全の神を祈って遭難を免れようとしたという。難船絵馬の画面には帆を降ろし波に翻弄されている廻船と、画面上部には難船を救いに来てくれる神を表したと思われる雲に乗った御幣が描かれ、それに向かって祈る髷を落とした乗組員が描かれているものも見られる。このような難船絵馬が他の地域で見られるまとまりと比較して多く見られるのも本件の特徴の一つである。本件の絵馬のもう一つの特徴は、判明している奉納者の範囲が日本海側の広範囲の地域に及ぶことであり、また、その奉納年代が江戸時代後期から明治期に至るもので、ちょうど日本海を行き来する西廻り航路の廻船活動が盛んに行われた時期にあたる。これら廻船の発展に伴って日本海各地から絵馬が奉納されたと考えられるのである。宝泉寺および黄帝社への船絵馬奉納が行われた背景には、風待ち、潮待ちの港として・須佐や江崎の港に多くの船が出入りするようになったことがある。出入りする船の船乗りや船主たちが造船にまつわる神、海上安全の神として知られていた黄帝社および宝泉寺に絵馬奉納を行ったものと思われる。 山口県HPより
 
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青野山と青野山王権現
この山は古くは妹山(いもやま)とも呼ばれ白山火山帯に属し標高は907.6mの休火山である。昔から四季折々の山容の変化をもって農耕の暦とし、天候を占い、日本海沿岸の航海の標識ともなれば漁民の目じるし、漁網張の基点ともなって農・漁を問わず、広く近辺の人々の篤い崇拝の対象とされていました。青野山王権現は津和野七社の一社として天明期(1532年)以前の勧請と伝えられ、代々城主の崇敬を受け、御神体は津和野のお城の方角へ向かって安置されています。  現地説明板より
津和野城跡
津和野城は町の南端に位置する標高370mの山上にあった。別名を三本松(さんぼんまつ)城、蕗(ふき)城、山の名を霊亀山という。南北3kmにのびる丘陵上にあり、中世には全山が城塞として使用された。元冠にさいして、西国防備を命じられて西石見吉賀地方に下向した吉見頼行が、永仁3年(1295)から築城にかかり、約30年の歳月をついやして完成したと伝えられる。山上をけずり削平地とし、山の峰つづきに堀切をつくった典型的な山城であった。石垣構築は室町末期といわれる。関ケ原の戦いの戦功で入城した坂崎出羽守成正は、城郭の大改築をはかり、本丸の北方約200mの山頂に側面防衛のための出丸である織部丸(おりべまる)を築いた。今日残る遺構の大部分がこのとき築かれたものである。また城の内堀は城山をめぐって流れていた津和野川をあてた。亀井氏になって寛文年間(1661~1673)に現在の大橋から横掘までの約1kmにわたって外堀が掘られた。吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間ののちは、明治維新まで亀井氏が11 代225年にわたり城主として在城した。貞享3年(1686)に天守は落雷のため焼失し、その後再建されることもなく、明治7年(1874)に石垣を残して解体された。その間、吉見氏十一代正頼が天文23年(1554)、陶晴賢(すえはるたか)の大軍をこの城で迎えうち防戦した戦史がある。現在は太鼓谷稲成神社の参道からリフトによって約5分で頂上に達する。城郭建造物は何もないが、全曲輪(くるわ)の石垣はほぼ完全な形で保存されている。東部の高所が本丸跡、西のやや低い所が天守台、また南門跡をつなぐ石垣は広壮であり、吉見氏後期に改築した大手はほぼ東北にある。東門跡、三段櫓跡、腰曲輪跡の石垣は階段状に延々と連なって雄大である。さらにその北方やや低い所に三本松平をへだてて、普請奉行だった浮田織部の名をとった織部丸があり、東麓に館跡や侍屋敷跡がある。古城の旧態をよく保ち、ことに石組の堅固さ、雄大さは比類のないものである。城跡は昭和17年(1942)10月に国の史跡に指定されており、現在は公園として親しまれている。津和野の町を展望するのには最適の場所であり、北方になだらかな稜線をみせてそびえる青野山の山裾に広がる家並みと、その中をゆるやかに流れる津和野川を一望できる。  HPしまね観光ナビより
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大澤田湿原(おおぞうだしつげん)
大澤田湿原は犬伏峠付近、標高六百五十メートルにある。湿原の全長は約四百メートルで、幅は広いところで約五十メートルに達する。この辺りは比較的平坦な地形であるが、もとやや窪んだ所に水が溜まってできた湿原である。水たまりが明瞭であった時期には、湿原あたりが水底だったと考えられる。湿原の植物相から、大澤田は典型的な中間湿原であると考えられ、平成十二年の広島大学の現地踏査により五十七の植物種が確認された。このうち、わが国における保護上重要な植物が三種、広島県で絶滅の恐れがあるものが一種、国立、国定公園特別地域内指定植物にある種が十四種である。このように大澤田湿原は湿原特有の希少植物や貴重な昆虫類の重要な生息地である。 平成十六年十二月一日 安芸高田市教育委員会  登山口説明板より
城君寺
この寺は、五百年の歴史を有する古い寺で、文明10年(1478)に博多の筥崎社の鳥目(銭、金銭のこと)の進上、大永2年(1552)の陶興房の感状や、弘治2年(1556)の毛利氏の成君寺攻略など、沢山の古い記録が残っています。宗派は臨済宗で、本尊は地蔵菩薩と千手観音菩薩で、いずれも火災で焼失し、昔のものは仁王門だけが残っています。また、寺には慶長検地に反対して起こした山代一揆で、死罪となった、山代各村庄屋11人の記念碑等もあります。裏山の成君寺山には成君寺城趾があり、この寺と一体となって、戦国時代からの大内の城塞として用いられました。  現地説明板より
 
山代一揆
毛利氏は太閤検地の一環として天正15-18年(1587-1590年)に領国内の検地を実施しているが、このときの山代地方の石高は5,300石と言われている。その後、慶長5年にも検地を行い、石高11,901石とされた。毛利氏は、関ヶ原敗戦後の減封に対処するため、慶長12年から15年(1607-1610年)に再度検地を実施しており、防長2カ国で、実高539,268石となったが、幕府には369,411石と上申し、これが表高とされた。山代の検地は慶長12年に行われ、実高は28,325石とされ、慶長5年検地時の2.5倍となった。僅か10年で生産力が倍増する訳も無く、これは田一反あたりの石盛を高く設定したことに加え、小成物と呼ばれる各種作物も対象とすることにより、人為的に石高を高く見積もったものであった。毛利氏の年貢率はもともと73%と高く、農民の負担は途方もないものとなった。この過酷な課税が山代一揆の原因となる。
一揆の実態は不明であるが、慶長13年(1608)10月、11人の庄屋を中心に多数の農民が参加したとされる。一揆を代官所の人数だけで鎮圧することは難しく、代官所は減税の方向で一揆の鎮撫に努め、一揆を解散させた。結果73%の年貢率は40%に減額されたと言われている。
翌慶長14年3月28日(1609年5月2日)、代官所より一揆の指導的人物である北野孫兵衛に対し、翌日に一揆の首謀者である十一庄屋全員が出頭する旨の書状が届く。一同は出頭後直ちに捕縛され、引地峠の刑場に連行され斬首、その首は物河土手に?首された。北野孫兵衛のものとされる首塚は現在も成君寺近くに残る。
なお、僧休伝が追善供養にあたり、寛文4年(1664)浄土門の寺一宇建立を許されたとされる。これが建立寺で、現在も十一庄屋合同位牌が安置されている。  ウィキペディアより
本郷村の歴史
中世においては、傀儡の大内氏を立てた陶氏の勢力伸長・先駆け的地域に位置している。陶氏と安芸の国衆の勢力争いにおいては、陶氏の先鋒的な役割を担わされた。宮島の合戦前の小競り合い(折敷畑の戦い)において、山代衆が廿日市に遠征し安芸の国衆に敗れている。宮島の合戦後に行われた毛利氏(安芸の国衆首領)の征討戦では山代地方では成君寺城の戦いがあったとされるが、全体としては激しい抵抗戦は起こっていない。関ヶ原の戦いの結果、防長2州に移封された毛利氏の政策は、国境の守りとして山代地方を重視し代官所が置かれていた。また、この時代開かれたと思われる集落は一様に士分として認められた所もある。地勢として山間地域であるため楮・三椏の生産があり、耕作地の地力維持に必要な茅・草には事欠かず、農地の生産性は比較的高かったと思われる。ここに目をつけた 毛利藩では高い税率を課して、藩財政の潤沢を図っているが、結果として山代一揆を起こしている。  ウィキペディアより
目次 
 小松尾城跡
前方の紙祖川と七村川とが合流し、その間に屹立した比高約120m測る山地が小松尾(要害)城跡である。山頂には約140m×9mを測る細長い削平地があり、そのほか一段高い見張り台や、数段からなる削平などがあって、尾根筋の両端部には数条の堀切がみられ守備を固めている。一部に縦堀もあり、西側の斜面には厩床という地名の檀床もみられる。本城は、もと斎藤氏が拠ったともいわれているが、室町中期には益田の大谷郷地頭であった大谷兼秋の3男章実が居城した。そして文安3年(1446)に吉賀郷高尻の河野氏、広石の上領氏に攻められたが、時の大谷主膳は益田七尾城主の義堯の援軍でことなきを得、宝徳3年(1451)には逆に吉賀の両氏を攻めている。益田領境地としての重要性を知った益田氏は、その後18代七尾城主の尹兼は、弘治元年(1555)に弟の兼任を小松尾城主に命じた。そしてその子兼治とつづいたが、関ヶ原の戦後は益田市とともに須佐に移って廃城となった。 益田市教育委員会  麓の説明板より
後藤吾妻氏像と離郷者望郷之碑
明治十三年後藤信太郎の長男として出生。明治四十一年二十八才の時山村僻地の困窮した生活を憂い、二宮尊徳先生の教えを尊重し共存共栄を目的とし七〇〇余町歩の山林を基本財産として社団法人西樽床報徳社を設立し地域住民一致協力して道路の建設、改修、学校、神社・共同作業所等の建設又写真家熊南峰氏と共に天下の秘境三段峡を広く世に紹介した。終戦時の食糧難を教訓として一〇町歩の開墾を計画、事業半ばにして中国電力株式会社のダム建設に依り七十三戸が先祖伝来の地を湖底に沈め、昭和三十二年(1957)互いの幸せを祈り再開を誓い離散した。  碑文より
石城山神籠石(国文化財) 昭和十年六月七日指定
「神籠石」とは、巨石を一列の帯状に並べ、山の中腹から八合目あたりをはち巻状に取り囲んでいる古代の大土木工事の遺跡に付けられた名称である。「石城山神籠石」は、明治四十二年秋、当時の熊毛郡視学・西原為吉氏(福岡県出身)によって発表され、それまで、九州にしか存在しないとされていたこの大遺跡が本州でも発見されたので、考古学界の注目するところとなった。この「石城山神籠石」の列石線は南側鶴ヶ峰(標高357.6mで、現在テレビ塔が立っている。)の近く(標高約342m)を列石の頂点として下向きに回り、石城五峰(最高峰の高日ヶ峰362m・鶴ヶ峰・大峰・月の峰・星ヶ峰)を取り囲み、最下部は北水門あたりで、標高約268mまで下がっている。列石線の総延長は2,533.54mにもおよぶ大規模なものである。列石線から谷間を横切る場所には高い石垣壁を築き、その中央下部に水門を設け、北水門・東水門・南水門・西水門が発見されている。城門は、表門と裏門に当たるとみられる遺構が発見され第一門跡(北門)には「沓石」と呼ばれる二個の門扉の柱礎石が残っている。「神籠石」をいつ頃、だれが、何の目的で構築したかについては、ながく定説がなく、神域説と山城説とで論争されてきたが、昭和38年、39年、国の文化財保護委員会(現・文化庁)、山口県教育委員会、大和村(現・光市)の共同による発掘調査の結果、従来知られていなかった人枡、柱穴、版築工法による土塁が、数百メートルにわたり発見され、神籠石式古代山城の一つであるといわれるようになっている。  平成十九年一月  山口県教育委員会・光市教育委員会  現地説明板より
 
石城神社本殿(明治四十五年五月二十七日国文化財指定)
石城神社は延喜式内社で、由緒ある神社である。祭神は大山祗神・雷神・高?神(たかおかみのかみ)で、武事・鉱山・農林の神をお祀りしている。旧号を三社権現といっていたが、明治元年(1868) 石城神社と改称した。 石城神社の創建は明らかでないが、社伝によると、敏達天皇3年(574)の鎮座といわれ、天皇の勅額と伝えられる「石城宮」も保存されている。 本殿は、文明元年(1469)大内政弘が再建したものと伝えられている。桁行5.54m、梁間2.85m、正面入母屋造り、背面切妻造り妻入り、こけら葺、四囲に縁をめぐらせた春日造りである。柱面のとり方、勾欄のそり方、斗?(ときょう)、蟇股(かえるまた)等に室町時代の特色を残している。大正10年(1921)解体修理、昭和58・59年(1983・84)屋根葺替を行う。 明治40年(1907)5月27日に特別保護建造物に指定され、昭和4年(1929)7月1日国宝に、同25年(1950)8月29日に重要文化財の指定を受けた。  平成十九年九月 光市教育委員会  現地説明板より
 
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神護寺跡
「防長寺社由来」によると、奈良時代の天平神護元年(765)、称徳天皇が石城山に立ち寄られた時、石城神社の社務を取り扱う社坊として「石城山舎那院神護寺」と命名されたとある。江戸時代末期に編纂された「防長風土注進案」によると、真言宗の寺で、本堂は桁行八間(約14.4m)、梁行七間(約12.6m)で、他にも庫裏や土蔵、長屋、鐘撞堂があり、これらを含めると、総建築規模は四百㎡を超える広さであった。この神護寺は、幕末から明治維新にかけての第二次長州征討や戊辰戦争で活躍した「第二奇兵隊」の本陣として利用されていた。慶応元年(1865)約四百名の隊士は、室積の普賢寺を出発して石城山に入り、高札を立てて農民の入山を禁止した。本陣周囲には、兵舎、練兵場、厠、病院等の施設を整え、盛んに練兵が行われた。その後、慶応四年(1868)の神仏判然令によって、神護寺は平生町に移される。  平成二十四年三月  光市教育委員会  現地説明板より
千坊山の由緒
東千坊は伝教大師、西千坊は弘法大師が開かれたと伝えられ、この山谷に、約三百坊の僧房が営まれていたという。三百坊、仁王堂、鐘撞営なとの地名が、当時の寺運を物語る。大内氏隆盛の時は、その加護を受けたが、次第に衰運となった。このあたりを、三霊泉、閼仂の水、三ヶ月井戸、御井と呼ぶと伝記ある(蓬莱山、室積院略縁起による)。この山頂は西千坊山で標高二百九十八メートルである。  昭和五十四年四月  光市教育委員会  現地説明板より
 
筆懸の松
宇田天皇の御代(890年)、中国の名臣の像を紫宸殿障子に描いてその名を揚げた巨勢金岡が諸国遍歴の途次、この地に立寄った。秀でた峰、静かな波、老いた緑の松、象鼻ヶ岬の絶景を描かんとして、余りの絶佳に魅せられ「我が筆及ばず」と嘆息して、その筆を松にかけて去ったという。以来¨筆懸けの松¨とよばれている。現在六代目として、その名をとどめている。(場所については、もともと大峰峠より東約100m付近にあったといわれている。) 光市観光協会  現地説明板より
森様社叢(昭和五十八年七月二十六日光市天然記念物指定)
森様は、御手洗湾を見下ろす広さ七百十六平方メートルの社叢である。社叢内における最大の樹木、ムクノノキは関東以西に分布するニレ科の落葉高木で、当市においては稀に見る巨木である。根廻り7.12m、目通り幹回り3.95m、樹高は約23mあり、枝張りは東西南北とも約12mに達する。春季には若葉とともに淡緑色の小花を開き果実は卵状球形、直径八ミリ程度で、晩秋、黒色に熟し、甘いので食用とされる。その他、社叢内には、樹木としてクスノキ、ソメイヨシノ、ヤブツバキ、イヌガヤ、アカメガシワ、ヤブニッケイ、マサキ、シュロなどが、草木として暖地性の羊歯植物ホソバカカナワラビなどが茂り、社叢内を乾燥、直射日光から防いでいる。 昭和五十八年九月一日  光市教育委員会  現地説明板より
 
室積のまちのなりたち
室積は海外貿易の隆昌をきわめた足利・室町時代、中国地方唯一の貨物取り扱い場となり、山陽海路の要衝として繁栄した。慶安三年(1650)の藩主毛利秀就公が宰判制による統治を施行したとき、室積は熊毛宰判の管轄に編入された。安永五年(1776)には御撫育所が設けられ、嘉永六年(1853)には御米倉が設置され山口県東部の海運の要衝として、また経済・文化の中心地として大いに賑わい明治の維新を迎えた。室積はもと無漏津海・室津海または室住と言われたが、室は年中風がないでいて室の中にいるようだとの意味である。また足利・室町時代に外国より招いた使者を当所に住まわせたところから室積と言われるようになった。明治十一年に熊毛郡役所が室積に新設され、室積浦並びに室積村・牛島にそれぞれ戸長役場が設けられたが、明治二十二年町村制の実施に伴い室積村・室積浦と牛島を合わして室積村となり、更に明治三十九年一月より室積町となった。昭和十八年四月一日光町と合併、光市域となる。  現地説明板より
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普賢寺  創建:一条天皇の寛弘三年(1006)と伝えられている 開基:性空上人 本尊:普賢菩薩像 宗派:臨済宗建仁寺派 称号:峨眉山
播州書寫山圓教寺の住職である性空上人は、長年、普賢菩薩を拝したいと願っておられた。ある夜夢のお告げにより、周防室積の地に錫を留めるに至り、当時の古老に種々の昔の話を聞かれた。そして漁師の手によって沖合の海中より出現の霊像を拝され、此れを普賢山上大多和羅山に庵を結び安置された。後年現在の場所に普賢寺御堂が建立され、本尊として安置されている。現在の普賢寺は江戸時代初期に改築された。また本尊の安置してある普賢菩薩堂は大正六年五月に改築され、平成五年四月に大修理された。創建当時は天台宗であったが、後に臨済宗となり現在に至る。江戸時代全期及び明治初年の版籍奉還までは毛利公の祈願所とされ、お手普請寺として寺格は高かった。なお、開基性空上人の入寂の日をとって定めたという毎年五月十三日、十四日、十五日の三日間の普賢祭には、盛大な農具市や露天市がたち、古くから普賢市として広く知られている。仁王門は、寛政十年(1798)の建立といわれ、雄大かつ奇怪な約六尺余りの木刻の仁王像が両脇に安座し、楼上には十六羅漢像が安置されている。  平成六年三月  光市観光協会  現地説明板より
光峨眉山護国神社
光峨眉山護国神社は、明治三年(1870)山口藩遊撃隊によって創建されました。創建当初は、維新の志士来島又兵衛ほか八十柱の霊を祀っていましたが、今日では、太平洋戦争までの郷土出身の戦没者も合祀されています。この地は、室積全景地を背後にして遠くは姫島、近くは祝島、牛島、長島、尾島の諸島を指呼の間に収め、筑豊(福岡県)の連邦、国東半島の由布岳等を煙霞の内に望んで風光明媚なところです。 平成八年三月  光市観光協会  現地説明板より
 
杵崎神社
杵崎神社は、普賢堂の西方峨眉山の谷あいにあります。関西における著名な風神の級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)、大伴連狭手彦(おおとものむらじさでひこ)の三神を祀っています。社伝によりますと、人皇二十九代欽明天皇(562)、大将軍大伴連狭手彦が勅命を拝して、新羅征伐の途次、この沖合で大しけにあい、兵船を危うく転覆しそうになりました。このとき、狭手彦が専心に風神に祈誓し黄金作りの佩刀をとって荒れ狂う海中に投げると、峨眉山より一筋の霊光が輝き渡り、激浪がたちまちに静まって海上が鏡のようになぎ大小幾千の霊亀が現われて兵船を守護しながら狭手彦らをこの浦(御手洗湾)へ導いたといわれています。昔は亀崎神社と称していました。社殿の背後の峻坂を下りて海岸に立つと、断崖絶壁がそそり立ち、激しい風雨にさらされながらも岩場に根づいた松など、起伏に富む山水画的光景は目を見晴らすものがあります。 平成八年三月  光市観光協会  現地説明板より
六十六部廻国供養塔
六十六部廻国供養塔とは、六十六部行者と呼ばれる、諸国を遍歴する行者に結縁して建立された供養塔のことをいう。六十六部廻国巡礼とは、法華経を書写して全国の六十六カ国の霊場に1部ずつ納経して満願結縁する巡礼行をさし、この巡礼に従事する行者を六十六部行者、六部行者、廻国聖などと呼んだ。中世後期、鎌倉時代末から室町時代にかけて、諸国を巡礼した六十六行者により、経巻を入れた金銅製の経筒が経蔵に奉納されたり、あるいは土中に埋納された事例が、文献上、あるいは考古学的な発掘調査により、実際に確認されている。このような六十六行者の淵源は、法華経を持して諸国を遍歴した源頼朝の前身である頼朝坊、北条時政の前身である箱根法師などに求められると伝承され、行者は彼らの末裔に連なるという。善光寺如来を背負って諸国を行脚する善光寺行者とも密接な関係にあるとされる。善光寺縁起では、秘仏であった善光寺如来を感得して模刻したのは伊豆走湯山(いずそうとうさん)の僧であり、走湯山や箱根山は鎌倉幕府ともかかわりが深い。東国でも信仰されたが、近世の大坂においても、厚い信仰を集めていたようである。徳川幕府の寺請制度のもとでは、原則的には自由な移動は禁止される。しかし、行者は特定の会所に所属しその支配下に入ることで、ある程度諸国を自由に巡礼する特権を得ていた。六十六部行者も、東京寛永寺、京都仁和寺、空也堂などが元締となり、その免状を得ることで廻国巡礼を行った。ただし、六十六カ国をまわるというよりも、実際は西国巡礼や国分寺などをまわったようである。六十六部行者に対する信仰が盛り上がる時期は、世情が安定し、信仰の上でも出開帳(でかいちょう)などが活発に行われ始める18世紀前半以降のことである。中世のような経筒を奉納する事例は、近世ではほとんど見られない。それにかわって、行者に結縁したことを記念するための、石造供養塔を建立することが行われた。  大阪市HPより
 
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八畳岩(はっちょういわ)
この岩の表面には天狗の足跡と呼ばれる数個の窪みがあり,磐座(いわくら)と思われます。記録では,神武天皇が260隻の舟団を率いて東征した際,草津港が基地とされていました。当時は海が眼下の草津八幡宮の鳥居近くまで迫り,海岸線は己斐,可部,祇園まで達していました。草津港は力箭山で西風を防ぐことができ,波が穏やかで天然の良港でした。この八畳岩は草津港に入った舟から正面に見え,草津八幡宮の奥の院として宇佐島,奥津島,市杵島の三女神とスサノオノミコトが祭られたようです。鬼ヶ城山山頂の東斜面を少し下ったところに小八畳岩がこのたび確認できました。伝説によると二枚の岩は一枚でしたが、あるとき地震で半分に割れ、半分が落下して小八畳岩になったそうです。草津港は軍津(いくさつ)港とも言われ毛利元就の厳島合戦や秀吉の朝鮮出兵等の際に船ぞろえをした場所です。 参考 日本書紀、廣島史話伝説  現地説明板より
 
立石城跡
大茶臼山頂上近くの展望岩に室町時代の山城「立石城」があったと伝えられています。岩の頭が人工的に平らに整えられて櫓を組むのに適した平岩や岩と岩の間には人間一人が歩ける通路(武者走り)が見られます。このことから、立石城は砦城であったと考えられ、近隣に展望とにらみを利かせていたことでしょう。  現地説明板より
 
権現峠・権現神社
「権現峠」は、古くから地域の住民たちが山本方面に行き来するのに日常利用した古道で、この道は別名「山本街道」と呼ばれていました。また、古代山陽道とも繋がり、利用されたとも言われています。この道は、加計・水内方面から広島に通ずる近道で、毛利輝元が広島城築城のときは、加計・水内の木材がいかだに組まれて太田川を下って運ばれ、いかだ乗りたちは帰路を棹をかついでこの道を帰っていったと言われています。毛利輝元は、郷里の吉田から胡子祭り(えべっさん)には、稲刈りの終わった住民たちは(原文ママ)買い物に出かけたようです。夜の明けぬうちに出発し、この峠を越えて行き長い道中なので、草履の予備を二足くらい持って歩きました。ここには茶店もあったと言われています。この「権現神社」は、起源はあきらかではありませんが、ご神体は花崗岩の自然石で、峠をゆく人たちが、いつのころからか周辺を清め,柴を折り、水をたむけて道中の安全を祈願したものであろうと思われます。ご神体の入る社が、永年の風雨により朽ちて屋根瓦もずり落ちていたものを、平成九年十一月、伴中央地区の平木・鳴の有志が一念発起して建て替えたものです。  現地説明板より
 
御守岩台(ごしゅいわだい)・銀山城(かなやまじょう)
銀山城は、鎌倉時代の終わり頃、安芸国の守護であった武田氏が築いたと言われる山城です。武田氏はもともと甲斐国(山梨県)の武士ですが、安芸国と関係を持つようになるのは、承久の乱(1221年)で手柄をたてた信光が、安芸国守護職に任命されてからです。武田氏は最初、代理を派遣して統治していましたが、元寇のあった文永11年(1274)に、信光の孫、信時が安芸国に下ってここに住むようになり、以来およそ三百年間、安芸地方の支配にかかわってきました。銀山城を築いたのは、信時の孫、信宗と伝えられています。武田山から見下ろす旧祇園町一帯には、中世、佐東八日市を始めとする市場や各地の荘園から運ばれてきた物資などを保管する倉敷地があり、政治、経済、交通のいずれの面でも、大変重要な場所でした。銀山城は、この要衝を押さえるのに格好の位置に築かれたのです。標高410.9mの武田山全山にわたるこの城は、守りの固い名城とされ、戦国時代に中国地方の統一支配を目指して西から攻めてきた大内氏の激しい攻撃にも落ちなかったと言います。しかしその名城も、武田氏の勢力の衰えた天文10年(1541)、大内氏の命を受けた毛利元就らの巧みな戦略によってついに落城し、以後は大内氏の支配下におかれました。そして天文23年(1554)には、毛利元就が自身の居城として手中に納めています。現在、山頂には「御守岩台(ごしゅいわだい)」と呼ばれる郭があり、一段低い所には、城内で最大規模の面積を持つ「館跡」と呼ばれる郭があります。中腹にある「御門跡」は、自然石を利用しながらも通路を直角にとる「かぎの手」の石積みを残しており、近世城郭の枡形の原形として注目されています。また、武田山の麓から山頂までのいたるところに「馬返し」「見張り台」「観音堂跡」など、五十近くの郭があり、安芸国内の中世山城としては、郡山城(安芸高田市吉田町)と並ぶ最大級のものと言えます。(「広島市の文化財」より)  広島市HPより
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宇佐八幡宮由緒
総鎮守の宮宇佐八幡宮は第74代鳥羽天皇の御宇天仁元年(1108)当地の住人常国太郎左衛門尉が豊前国宇佐八幡宮から御分霊を勧請し当初日和「開き」に鎮座したのが起こりで,其の後夏焼中ノ御前社附近に奉遷し第95代花園天皇の御宇正和元年(1312)現今の地に奉遷したものである。「宇佐」の郷名は八幡宮勧請の砌宇佐八幡宮より賜ったものである。応安2年,応永22年,天文22年,慶長15年,宝暦2年,安永2年,弘化2年再建。当八幡宮に対する大内氏及び毛利氏の尊崇は極めて篤く,棟札によれば天文12年大内義隆は尼子征伐出陣に際し御神体の修理彩飾をなさしめ且大勝利の祈願をなし大内義長も天文22年極めて大規模の再建をなさしめている。毛利秀就は慶長十五年の社殿造営に際し社領田弐石を寄進し又毛利宗広も宝暦二年の再建には米十石を貸与し明和九年江戸大火のため毛利邸が焼失したためその改築用材として杉千坪の供出を命じ代償として銀五一五匁を勘渡されている。
 
今和泉島津家屋敷跡
今和泉小学校は、今和泉島津家の屋敷(領主仮屋)があったところです。今和泉島津家とは、延享元年(1744)に第5代藩主島津継豊(つぐとよ)(島津家22代)が弟の島津忠郷(たださと)に、長く絶えていた和泉家を再興させた家のことです。その領地は今和泉郷と呼ばれ、現在の岩本・小牧・新西方の一部・池田・仙田からなり、一万五千石の石高がありました。今和泉島津家は、重富(しげとみ)家・加治木(かじき)家・垂水(たるみず)家とともに、「一門家(いちもんけ)」と呼ばれる藩最高の家柄でした。「一門家」は、藩主の代役を勤めたり、参勤交代から帰る藩主を国境まで迎えに行くなど様々な役割を担っていました。また、藩主に同行して将軍と謁見することができたのも、この「一門家」だけでした。今和泉島津家5代忠剛の娘一子(於一)は、嘉永6年(1853)に第11代島津藩主島津斉彬(島津家28第)の養女になり、名を篤姫に改めました。そして、安政3年(1856)、第13代将軍徳川家定に嫁ぎ、家定が亡くなった後は、天璋院と名乗り、幕末から明治の動乱の時期に、徳川家の存続に尽力しました。現在、当時をしのばせるものとして、今和泉島津家伝来の手水鉢や井戸、隼人松原や領主仮屋跡の石垣が残っています。また、ここから南西へ300mのところに、今和泉島津家の墓地があります。  指宿市教育委員会  現地説明板より
天璋院篤姫と今和泉

篤姫は、天保6年(1835)12月19日に、鹿児島城下に生まれました。幕府は、第13代将軍家定の夫人を島津家に求め、今和泉島津家第10代当主忠剛(ただたけ)の娘一子(かつこ)が選ばれました。嘉永6年(1853)に名を篤姫に改め、藩主斉彬の実子として幕府に届けました。将軍家に嫁いでわずか1年半後の安政5年、家定がなくなり、篤姫は天璋院と名を改め、大奥をまとめる役割をはたしました。幕府の動乱期には、実家の島津家と徳川家は対立関係になりましたが、天璋院は江戸城無血開城に大きな働きをするとともに、徳川本家の存続のために尽力しました。そして、明治16年(1883)11月20日、49歳の人生を終えたのです。この今和泉の地は、今和泉島津家の領地だったところです。宮尾登美子さんの小説「天璋院篤姫」では、篤姫は幼少の頃、ここ今和泉で育ったと描かれています。   現地説明板より

老松と篤姫
篤姫ゆかりの地今和泉。この地は今和泉島津家の別邸があったところです。於一(篤姫)が、幼少の頃遊んだ隼人松原海岸が別邸前に広がり、錦江湾の奥には雄大な桜島をみることができます。また、樹齢300年以上といわれる老松も4本未だ衰えをみせず、今和泉の地を見守っています。於一もおそらく、この老松で遊び、また桜島をみていたことでしょう。  現地説明板より
 
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山川漁港
山川漁港(やまがわぎょこう)は、鹿児島県指宿市の鹿児島湾入口部に位置する山川湾の地形を利用してつくられた漁港。山川湾は砂嘴によって外洋と区切られているため波が入りにくく、古くから港として利用されてきた。砂嘴の形状が鶴のくちばしに似ていることから江戸時代には「鶴の港」と呼ばれており、現在でも台風接近時などには避難港として利用されている。山川港に関する最古の記述は1217年(建保5年)の文献にある。九州南端に位置することから南蛮貿易における重要な中継地の一つとなっており、都市を形成していたと考えられている。1561年(永禄4年)にポルトガル商人の殺傷事件が起きたことが記録に残されている。戦国時代においては、山川港の支配権をめぐって地域の有力豪族であった指宿氏と頴娃氏が争っていたが、1583年(天正11年)頃から戦国大名の島津氏が直接支配するようになった。文禄・慶長の役や1609年(慶長14年)の琉球出兵においては島津氏の拠点港として利用された。江戸幕府の鎖国政策によって南蛮貿易が終息した後は、薩摩藩による琉球貿易や砂糖輸送の拠点となった。幕末においては、1837年(天保8年)に起きたモリソン号事件の舞台の一つとなった。1858年(安政5年)には咸臨丸が寄港しており、1859年(安政6年)および1862年(文久2年)には流罪になった西郷隆盛がここから奄美大島および徳之島に渡っている。明治以降は沿岸漁業の基地となり、1950年(昭和25年)12月、第3種漁港に指定された。第二次世界大戦後の食糧不足を背景として1949年(昭和24年)から1959年(昭和34年)にかけて遠洋漁業によるカツオ漁が急増したが、オイルショックや排他的経済水域設定の影響を受け、漁獲量は1978年(昭和53年)の20432トンをピークに減少傾向にある。1984年(昭和59年)に港の東部が埋め立てられ水産加工団地がつくられ、冷蔵倉庫、冷凍施設、魚肉練り製品の加工施設などが建設された。  ウィキペディアより
 
西郷南洲翁逗留の家
征韓論に敗れた南洲翁が鰻温泉を訪れたのは明治7年1月の末、供と猟犬をつれて、この福村市左衛門方に逗留した、毎日狩猟に出かけ、夜は読書をし、雨の日は村の子ども達と遊んだという。佐賀の乱に敗れた江藤新平が訪れ、大義に生きる翁と、国を憂い激論したといわれる。福村家には翁が愛用したシャツが家宝として残されている。  昭和52年9月  山川町観光協会  現地説明板より
 
枚聞神社のクスノキ  樹齢800年 幹回り7.9~9.5m 樹高18.0~21.0m
「枚聞神社由緒記」によりますと、神社は開聞岳の北麓に面して鎮座し境内地は約7000坪で、その中には千数百年を経た老樹が数多くあります。枝が鬱蒼と茂り天高くそびえている様は、このお社が由緒深い神社であることを物語っています。神社の祭神は天照大御神を正祀として他の皇祖神八柱神を併せ祀っており、特に交通安全、航海安全、漁業守護の神として船人達から厚く信仰されてきました。古くは、琉球王が枚聞神社に対して信仰が厚く、入貢の都度、神徳讃仰の文字を表す扁額を奉納したとのことで、現在その当時の扁額7枚が宝物殿に飾られています。 調査 平成22年2月 特定非営利活動法人 縄文の森をつくろう会  南薩地域振興局  現地説明板より
 
揖宿神社
社伝に依れば慶雲3年(706年)にこの地に行幸した天智天皇の遺品を奉じて作られた「葛城宮」が創始という。その後、貞観16年(874年)の開聞岳の噴火により被災した枚聞神社を避難遷宮し「開聞新宮九社大明神」と称するようになった。明治になって「揖宿神社」と改称し、郷社に列した。現在は単立神社である。
天照大御神を主祭神とし、相殿に御子神(天之忍穂耳命・天之穂日命・天津日子命・活津日子根命・熊野久須毘命・多紀理毘売命・狭依日売命・多岐津比売命)を合わせ祀り、摂社に東之宮(彦火火出見命)・二龍宮(和田都美命)・聖宮(塩土翁命)・懐殿宮(昭美日月命)・西之宮(天命開別命)・姉姫宮(豊玉姫命)・天井宮(玉依姫命)・荒仁宮(大己貴命)を奉斎する。主祭神と摂社8柱の神をあわせて開聞新宮九社大明神と唱え、1968年(昭和43年)3月19日に市内十二町字諏訪に鎮座していた南方神社建御名方命を合祀する。
現存する社殿は弘化4年(1847年)、島津斉興によって建てられたもので、本殿は入母屋造妻入、石造の鳥居は鹿児島市の甲突五石橋を造った肥後国石工・岩永三五郎の作、手水鉢は調所広郷の寄進による。
社殿は、本殿・舞殿・拝殿・勅使殿を一列に配し、勅使殿の左右に東長庁・西長庁を備える建物群である。以上の社殿は総楠造りで、棟梁は阿蘇鉄也(川内市の新田神社・姶良市の蒲生八幡神社を造営)である。社殿は1992年(平成4年)3月2日に指宿市の有形文化財に指定。  ウィキペディアより
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比婆山御陵 定昭和16年3月10日広島県史跡指
比婆山(1264m)の山頂は、古事記にいう伊邪那美命を葬った比婆山であるとして、古来より信仰の対象となってきたところである。南麓に遥拝所熊野神社があり、山腹に那智の滝(鳥(ちょう)の尾の滝)がある。神域の巨石及びイチイの老木は神籬磐境(ひもろぎいわさか)として伝承されている。古事記に「伊邪那美神は出雲国と伯耆国との境の比婆の山に葬りき」とあり、いわゆる「御陵の峰」が神陵のある山である。この御陵を奥の院といい、南峰約6㎞の山麓にある比婆山大神(伊邪那美神)を祀った熊野神社を本宮という。比婆山は別名「美古登山」ともいい、山上には3haにもわたる広大な平坦地がある。その中央部付近にある径15mの区域内は昔から神域として伝えられ、雨露に崩れて露出した巨石数個が重畳している。南側正面には一対のイチイ(門栂という)がおのおの巨石を抱いて茂り、伝承にある門戸を形造っているようである。この栂(正しくはイチイ)は木の母の字意から神木と解し、東洋における最長寿木であり、古代の神殿の造営林として重用されたもので、「あららぎ」の古語がある。御陵の背後に烏帽子岩という大きな岩があり、叩けば太鼓のような音を発するので、太鼓岩とも呼んでいる。そしてその周辺にはそれぞれ巨石を抱くイチイの巨木があり、古来神域の象徴として崇められてきた。幕末以後、神陵参拝が盛んであったが、明治20(1887)年頃、比婆山を神陵と称することが禁じられたため、登拝は衰えていく。その後、地元出身の宮田武義、徳冨蘇峰らによって全国に知られるようになった。  平成22年3月 庄原市教育委員会  現地説明板より
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正八幡宮神記 国重要文化財平成元年九月二日指定
御祭神 品田和気命(応神天皇)、足仲比古命(仲哀天皇)、気長足比女命(神功皇后)
神伝によると昔この地方秋穂浦は、異国の軍勢に度々襲われたことがあった。人皇五十二代嵯峨天皇の弘仁五年(814)八月十五日豊前国宇佐八幡宮より御勧請西戎降伏の鎮護の神として、二島の海汀(二島古神の地)に鎮め祀られたのである。当時は八幡二島宮と称えていた。その時嵯峨天皇の御宸筆の勅額及び紺紙金泥の法華経を賜る。その後数百年を経て火災にあい、応永の頃大内盛見公社頭改築の計画を立てられたが、やがて人皇百三代後土御門天皇の応仁元年(1467)卯月十五日大内政弘公により再建された。その後明応二年(1493)八月十六日再び火災にあい、その時綸旨院宝その他御宝物の多くを失ったという。御神記によって、八年の後人皇百四代後柏原天皇の文亀元年(1501)三月大内義興公により、現在地久米山の地に移し建て替えられた。更にそれから二百四十年余りにして蛾害の為、毛利宗広公により、人皇百二十五代桜町天皇の元文五年(1740)八月十三日現在の社殿に造営され今日に及んでいる。社殿は正面に面し、往古の西戎防護の目的に建てられた遺風を残している。古くから大内氏、毛利氏の尊崇もあつく、秋穂の総氏神として崇められ、お祭りも大変盛大厳粛であった。拝殿部分の基礎石の天端の周囲には溝が彫られているが、かつては、これに塩水をたたえ、シロアリの上昇を防いでいたものといわれている。明治六年郷社に列し明治三十四年七月九日県社昇格  宝物 勅額、四天王像、御託宣、太刀一口、連歌式目、能面十面   現地説明板より
正八幡宮本殿・拝殿・楼門及び庁屋(ちょうのや)三棟 国重要文化財平成元年九月二日指定
本社は、弘仁五年(814)に宇佐から八幡神を二島の古宮の地(現山口市秋穂二島)に勧請、文亀元年(1501)に大内義興が現在地に移築。棟札等によれば、江戸時代の元文五年(1740)藩主毛利宗広が改築したのが現建物である。本殿は、三間社流造りで、屋根は桧皮葺、周囲を霧除けで覆っている。また、正面の一部に室町期の蟇股が、残っている。拝殿は、桁行三間、梁間三間入母屋造りで、屋根は桧皮葺、三方に廻縁を付し、正面に石段が付く。楼門及び庁屋は、桁行一間、梁間一間入母屋造りで、屋根は檜皮葺である。正面に向拝が付き、左右に翼廊状の庁屋がとりつく構成で、山口県によくみられる特徴ある形式である。この本殿・拝殿・楼門、庁屋が軒を接する建築様式は、室町時代に山口地方で発生した神社建築様式の独自な景観を示すもので、その規模、彫刻等本殿や楼門などの特徴ある形式は江戸時代を代表する県下第一の神社建築であり、貴重な遺構である。  現地説明板より
能面(十面) 山口県指定有形文化財(彫刻)昭和四十一年六月十日指定
仮面の裏に記された刻銘によると、文明年中(1469-1486)のもの四面、延徳四年(1492)のもの一面、刻銘はないが室町時代の製作と見られるもの五面、計十面の面である。これらの仮面のうち、作者が判明しているものは、文明年中の四面で、秋穂大夫重成の銘がある。重成が何人であるか明らかでないが、文明十七年に書写された同社の「八幡縁起絵巻」の図面筆者に佐伯重成がおり、同一人物ではないかと見られている。延徳四年の銘のある面は市太夫の作、鼻高の面は予州中人三嶋大夫の作と伝えられている。現在、これらの仮面がどのような神事芸能に使用されたかその伝承を失っている。しかし、幕末期に編纂された「防長風土注進案」によれば、正月三日、七日、十五日、二月朔日、八月朔日に神楽舞があったことが記されている。彩色が江戸時代の後補であることからも、当時、ここ正八幡宮拝殿で行われた「細男(さいお)の舞」という神楽舞に用いられたことが考えられる。いずれにしても中世在銘の仮面がこのように伝存していることは貴重で、中世の神事芸能を知る重要な資料である。なお、この能面は、山口県立山口博物館に寄託してある。 山口県教育委員会、山口市教育委員会  現地説明板より
正八幡宮・鐘楼 山口県指定有形文化財(建造物平成十六年十二月十日指定
この鐘楼は、国指定重要文化財である本殿等と同時期の天文五年(1740)の建立であり、県下に同様式の鐘楼が残っている例が少ない上、神社に残存している例も少なく、神社の歴史的景観を考える点から貴重な文化財となっている。また、古来の建築物であるにもかかわらず、建造時期が明確な点にも価値がある。構造様式は桁行一間、梁間一間、袴腰付、軒は一軒疎垂木で屋根は入母屋造り檜皮葺き、二階床の周囲には跳高欄がめぐらされ、建物は簡素で組物や彫刻はほとんどなく、主要部分は建立当初の松材である。平成二十一年九月に保存修理工事が完了した。 山口市教育委員会  現地説明板より
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武家屋敷跡
この武家屋敷跡は、中世の武家屋敷の様式を明らかに残すもので、西方に嶮しい山を負い、北東南の三方には堀と土居をめぐらしている。土居の中の面積は約40アールあり、堀には今尚水をたたえ、当時の姿が完全に残っている。この屋敷跡に何人が住んでいたかは不明であるが、ここから500m北峰にある篠津原城跡(要害山標高650m)の城主あるいはその家臣が住んでいたと思われる。  現地説明板より
蘇羅比古神社の大杉 広島県天然記念物昭和28年4月3日指定
右スギ幹周5.9m、左スギ幹周5.2m スギ(スギ科スギ属)青森県以南、四国、鹿児島県屋久島まで広く分布しています。オモテスギは太平洋側に主に生育し、通常スギと言われます。ウラスギは日本海側の多雪地帯に多く分布します。見分け方の目安としてよく葉型が比較されます。オモテスギの系列は葉の着生角度が大きく、当樹は葉やその他の特徴からみてオモテスギ系です。蘇羅比古神社の創建は「継体天皇」の頃(六世紀前半)ともいわれている。当時、既にスギは自生しており、配植状況などを見ると、参道を造成するときに付近より移植されたものと思われます。  平成19年3月  庄原市教育委員会  現地説明板より
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高札場跡(唐樋札場跡)
高札場は、幕府や藩からの御触れを記した高札を掲示する場所です。多くの人に知らせるため道路の交差する辻や街道沿いの宿場町など、人通りの多いところに設けられました。唐樋札場の高札場には承久3年(1654)時点で7枚の高札が掲示されていたことが文献記録に残っています。高札には「忠孝にはげみ、親子兄弟仲良くすること」や「田畑を一生懸命耕し荒らさぬこと」といった暮らしや仕事に関すること、また「キリシタン禁令」や「異国船の抜荷禁止」などの禁止事項が記されており、城下での規律正しい生活を促すものでした。この他、磔(はりつけ)や獄門の刑に相当する罪人を見せしめのため、この地に晒場を設け、最長で三日間にわたり群衆の面前にさらすことも行われました。唐樋札場は、明治時代になってその役割を終え、取り壊されました。唐樋札場跡では平成21年2月から5月にかけて発掘調査を行い、しっかりとつき固められた基礎(版築土)の上で、高札場建物を支えていた柱穴、地面より一段高く見せるための基壇化粧石、細長い延石、雨水を受けるための瓦組遺構などが見つかりました。これらは全て地中に保存されています。建物推定規模は東西3.94m、南北7.51m、4本の柱距離はそれぞれ1.97mです。こうした発掘調査の成果を文献記録、絵図、類例建物などを参考にして、高札場を往時の姿に復原しました。復原された高札場は高さ5.67m、木造切妻造、鋼板葺(往時は板葺)となります。  萩市  現地説明板より
萩城北の総門
萩城三ノ丸(堀内)の東側に当たる出入口。総門としては、ほかに中の総門、平安古の総門があり、この門は他の門の北に位置して北の総門と称し萩城外堀を隔てて城下町に隣接した門番所があって、暮れの六ツ時(日の入り)から明け六ツ時(日の出)まで閉め、夜中は人も荷も手形を有する者に限り通行が許された。平成十六年(2004)に復原された総門は、脇戸付きの高麗門、切妻造、本瓦葺で本柱間は約5.9m、高さは約7mあり、日本最大級の高麗門である。  現地説明板より
黄檗宗東光寺
山号を護国山といい、元禄四年(1691)萩藩三代藩主毛利吉就が建立しました。吉就は若くして深く黄檗宗(禅宗の一派)に帰依して、京都府宇治市、本山黄檗山万福寺に範を求めて広壮な堂宇を建立し、萩出身の高僧慧極道明禅師を開山に迎えました。吉就の没後ここに墓所を営み、毛利氏菩提寺となりました。黄檗三叢林の随一と称えられ、文化年間の最盛時には全山塔40棟を数えたといいます。  東光寺発行のパンフレットより
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悴坂駕籠建場跡
藩主一行が領内通行とき、途中で駕籠を降ろして休息した場所である。普通は「御駕籠建場」と敬称をつけた。萩往還には悴坂のほか釿切(ちょうのぎり)・日南瀬(ひなたせ)・一ノ坂・柊・鯖山に設けられた。此処の駕籠建場の作りは駕籠を置く切芝の台二ヶ所と、その周囲に一間半に二間半程度の柴垣を設け、近くに便所を設けていた。道の向う側に常設の御茶屋があった。これは正式なお茶屋ではなかったが、床や囲炉裏を備えた休息施設であった。建物の痕跡は残っていないが、当時の水飲み場と思われる跡がわずかに残っている。  現地説明板より
鹿背隧道 平成11年7月8日国有形文化財登録
鹿背隧道は悴坂峠を貫通する隧道で、長さ600尺(約182m)、幅14尺(役4.2m)、高さ13尺(約3.9m)の規模を有した県内では他に類をみない石造トンネルである。施工には地元萩・阿武地域だけでなく、周防大島久賀や大分県安心院(あじむ)出身の石工が請け負っている。工事は明治16年(1883)に着工、翌明治17年(1884)に開通式が挙行された。明治10年代の石張り道路隧道としては大変希少であり、総延長も我国最大規模の長さを誇っている。素朴ではあるが重厚な味わいを持つ切石積みの坑口(こうこう)、総石張りの内部はまさに壮観で、山口県下最初の石造隧道として貴重である。  萩市  現地説明板より
明木橋
藩政時代の明木橋は、この付近にあった。幕末の志士吉田松陰は、伊豆の下田で国禁の密航を企てて失敗し、捕われの身となって萩へ護送された。そして最終日、安政元年(1854)十月二十四日、この明木橋を過ぎるにあたり次の誌を作った。
少年有所志〈少年志すところあり〉題柱学馬郷〈柱に題して馬郷を学ぶ〉今日檻輿返〈今日檻輿の返〉是吾晝錦行〈是れ吾晝錦の行〉
「中国前漢の人司馬相如の昇仙橋に大望実現の誓いを書いた故事をまねて、わたし松陰は少年のころこの明木橋において志を書いたことがある。そして今、檻に入れられて返されてきたが、故郷に錦を飾って帰る思いである。」この松陰の盛んな意気は、やがて松下村塾における子弟の教育を実らせ、明治維新の原動力となったのである。 現地説明板より
一升谷と石畳
一升谷は、明木市から釿切(ちょうのぎり)まで約三キロメートルの上り坂で、昔から長く急な坂道のために、この坂道にとりかかって炒豆を食べ始めると、登りきるまでにちょうど一升なくなることから、このように呼ばれたといわれている。一升谷には、雨水によって表面の土が流れるのを防ぐために設けられたと思われる石畳がある。平らな石を敷きつめた幅約一メートルの石畳は、昭和の初め頃までは道松とともに諸所に見られたという。私たちの祖先が築いた汗の結晶であり、数百年の風雪に耐えて何千男万という人が、いろいろな思いをこめて踏んで行った石畳は、現在では数箇所に残っているのみであるが、萩往還の面影を最もよくとどめている遺跡の一つである。  現地説明板より

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佐々並市御客屋跡
御客屋は、藩主の宿泊・休息施設である御茶屋の予備として置かれたものであり、家老、役人、他国使者の宿泊所として使用された。弘化2年(1845)当時、現在地に木村作兵衛家、また往還をへだてて井本弥八家があり、それぞれ御客屋に充てられ、普請の際には藩費が支出された。両家とも敷地間口十一間、西側に主屋を建て東側に塀を設けて門を構え玄関に式台を設けていた。主屋はいずれも桁行八間、梁間五間を図る大規模な建築物で、木村家は70坪、井本家は62坪を数え、ともに畳縁を設けた上質の客間を備えていた。また周囲の建物が茅葺であったのに比べ、木村家、井本家ともに例外的に瓦で葺かれていた。木村家の跡地には、大正6年(1917)に佐々並村役場が新築移転されたが、井本家は敷地分割され間口が若干狭まりつつも、当分の間、その姿を往還沿いに留めていた。昭和初期の上ノ町を写した古写真に井本家の遺構と見られる瓦葺平屋建ての民家が見える。 現地説明板より
貴布禰神社
祭神は「淤美神」(オカミノカミ)、「鵜草葺不合尊」(ウガヤフキアエズノミコト)、「玉依姫尊」(タマヨリヒメノミコト)の三神で、大内氏の建立と伝えられているが、由緒・年号は不明である。京都貴船山中の貴船神社を勧請したものと推定され。水事を主宰するいわゆる水の神として祈雨、止雨に霊験があった。毛利氏の萩入城に伴い長生庵の古寺を御茶屋に充当したため現在の地に遷座された。当社は市、久年集落の守護神として存在し特に市にはこの社のため従来から火事(失火)を見ないという。祭祀は春秋二回行われ、秋祭りは二所神社と共に神楽芝居が盛んで九月十七日夜の芝居、歌舞伎は村内の一つの名物で参観者も多かった。相殿には荒神、河内社、観音が祀られ菅原神社も合祀している。  萩市  現地説明板より
日南瀬の首切れ地蔵
萩にお城ができて五十年ばかりたった頃、山口宮野村の渡辺という武士が、萩の法華寺において、囲碁の争いから相手方に討たれた。渡辺の下僕の源助は、このことを聞いてひどく悲しみ、せめて主人のお墓の掃除をしたりお花や線香を供えようと、萩で商売を始め、くる日もくる日も墓参りを欠かさなかった。商売もだんだん繁盛するようになったので、源助はある日宮野村へ帰ることにした。萩を朝暗いうちに立ち、佐々並で昼食をとり、ここで休んでいると、夢ともなく現ともなく、「汝が休みたる下に我が形あり、掘出して道の側に建て直しなば汝が願いも成就し、なお、往来の人、家名を唱え、信心なる輩には、その縁によって済度せん。我は即ち地蔵菩薩なり。」とお告げがあった。驚いた源助は、大急ぎで村人を呼んで近くを探し、沼の中に埋もれていた地蔵尊の頭を掘出し、僧を招いて供養をした。その後、幼主も成長しめでたく仇を討ったのであるが、これはひとえに地蔵尊のおかげであるとお参りする人も増え、祈願も増してきたそうである。その地蔵は、はしめから首がはなれていたので、首切れ地蔵と呼んでいる(言い伝え)。  現地説明板より

日南瀬の石風呂
風呂の原形というべきもので、石を組んで石室をつくり、土をおおったものです。今日のように湯を使うようになったのは、江戸中期以降といわれています。この石風呂は、中で火をたき、底の石を焼いて、その上に萩の海草を敷いてその上に着物を着たまま休んでいました。のちには、海草のかわりに藁を敷き、水をうって、その上にむしろを用いたといわれており、神経痛やリュウマチによく効くといわれました。この石風呂は平成九年三月に再現したもので、当時の石風呂は日南瀬バス停下の山中に今も残っています。  現地説明板より
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板堂峠・キンチヂミの清水
萩往還の中で最も高い標高540mの地点を板堂峠と言います。中世、大内氏が栄えた頃に大内政弘が板葺のお堂を建てことに由来しています。板堂峠から山口方面に向かって少し下った谷の先には、江戸時代の初頭(1600年代)のころ開発され、寛永年間(1624-1643)ころまで稼働していた「一ノ坂銀山」がありました。この銀山の山奉行は「天野又右エ門」という名で、産出した銀には「天又」の極印が押されました。そのため一の坂銀山から算出した銀は通称「天又銀」と呼ばれています。さらに、山口方面に下っていくと、「キンチヂミの清水」に着きます。岩盤から水が湧き出ていて非常に冷たいので、飲んだら縮み上がるというので、キンチヂミとついたと言われています。この冷たい水を利用して、大正時代の初年頃(1910)まで、醤油味と砂糖味の「ところてん」を販売していたそうです。  現地説明板より
一の坂御建場跡(六軒茶屋跡)
「お成り道」(参勤交代や領内巡視用の道)として整備された萩往還は一里ごとに一里塚が設けられ、各所に往還松が植えられていました。また、藩主一行の通行に伴う各種の施設もつくられました。このうち「御建場」や「お茶屋」は、比較的長時間休憩する際の施設でした。また「駕籠建場」は見晴らしの良い場所で駕籠を降ろし、殿様一行が短時間休憩する場所として設けられていました。往還の中間地点でかつ最大の難所であったここ六軒茶屋には「一の坂御建場」が置かれました。その設計図面(差図)が山口県文書館に残されています。この地に部分的に復元してある建物群の配置は、この設計図を参考にしたもので、江戸時代のある時期の「一の坂御建場」を想定復元したものです。六軒茶屋という地名はすでに江戸時代中頃にはでてきますが、宮野の八丁峠を越えて萩へ通じる新しい道ができたのちも、ここ六軒茶屋では、民家の軒先を茶店にし、往来する旅人のよい休み場所になっていました。なお、「一貫石」の近辺に駕籠建場と呼ばれるところがありますが、ここにも駕籠建場の施設が置かれたといわれています。  現地説明板より
三田尻御茶屋英雲荘 平成元年(1989)九月二十二日国史跡指定
三田尻御茶屋は、承応三年(1654)二代萩藩主毛利綱広によって建設された藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視の際、あるいは公式賓客の旅館にあてられたものです。現在まで数度の改修が行われ、規模や間取りは様々な変遷をたどっていますが、県内に残る御茶屋としては唯一、区画の明瞭なものです。幕末の文久三年(1863)八月には、京都の政変の難を逃れた三条実美ら七卿が相次いで御茶屋に入られ、多くの勤王の志士を交え国事が談じられました。昭和十四年(1939)に毛利家より防府市に寄贈を受け、三田尻塩田をはじめ産業の振興に尽力し、藩の財政再建に努めた七代藩主重就の法名にちなんで「英雲荘」と命名されています。 平成元年九月 防府市教育委員会  現地説明板より
 
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磨崖和霊石地蔵(まがいわれいしじぞう) 昭和五十年四月広島県重要文化財指定
磨崖和霊石地蔵は、向田港の入江にあり満潮時には地蔵の肩あたりまで海に浸かる。花崗岩の岩石は、幅4.9m、高さ2.5m、厚さ3.7mで、海に向かって西の面に地蔵が刻まれている。像の高さ二十五㎝の七弁の蓮華座に座し、舟形光背の輪郭を約十五㎝の深さに彫りくぼめ、その中に地蔵菩薩像を肉厚に刻み出している。この像は、全体的に波浪による摩耗が見られるが、正安二年(1300)仏師念心の刻銘があり、当時の瀬戸内海地域の歴史を示す貴重な文化財である。  三原市教育委員会 現地説明板より
龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)
江戸中期以降に開発された間歩(坑道)で、「御直山(おじきやま)」と呼ばれた代官所直営の操業地にあった坑道で、「御直山」の中でも銀山を代表する「五か山」の一つです。坑口の横には番所(管理小屋)を設け、四ツ留と呼ぶ坑木を組み合わせて坑口としています。坑道は、ほぼ水平約600m掘り進んでおり、高さ1.6~2.0m、幅0.9~1.5m、採掘と同時に鉱石運搬の幹線坑道としても使ったようです。内部の岩質は角礫凝灰岩、坑道の壁面や天井にはノミ跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道(ひ押し坑)や上下方向に延びる斜坑を見ることができます。排水用の坑道でもあった下の「永久坑」へ降りる垂直の竪坑も残っています。坑道は入口から水平に約630m続いており、そのうち現在公開されている坑道は、156mまでで、そこから新しく掘った116mの連絡通路で栃畑谷へ通り抜けるようになっています。床面の高さは入坑しやすいように一部で掘り下げたところもあります。 現地説明板より
ヨズクハデ
ヨズクハデは、かつて西田地区を中心とし、飯原、上村、福光、市地区で盛んに建てられていたが、現在西田地区でのみ伝承されている。全国的にも温泉津町の一部でしか見られない稲掛けである。丸太四本を四角錘に組み稲掛けした姿を、ヨズク(ふくろう)に見立てたことが語源と言われている。どの角度からも三角錐に見えることから、地元では三又とも呼ばれている。伝説によると、水上神社に祀られている二柱の神が、大風の度に稲ハデが倒壊し、悩んでいる里人に、魚網を干す方法を伝えたのが始まりと言われている。性能としては、横風に強く、一度に米五表分の稲が乾燥できる。現在も西田の農業習俗として伝承されていることは希少であり、石見銀山遺跡の文化的景観としても評価されている。総高 約5.0㍍ 幅 約5.0㍍ 平成十七年十月一日設置 大田市教育委員会  現地説明板より
瑞泉寺
瑞泉寺の開基は、およそ1300年頃と伝えられています。元は、真言宗の寺院でしたが、天文九年(1540)に浄土真宗に改宗されました。その当時は「瑞泉坊」と称していたということです。慶長九年(1604)に坊号から寺号となったようです。歴代住職の中に、第12代に自謙和尚(1751年~1846年)、第15代に範嶺和尚(1853年~1925年)がおられます。自謙和尚は市木(現在の島根県邑智郡邑南町)の浄泉寺で修業後、本願寺へ移りました。そこで、本願寺の最高学階の「勧学職」初代を務めた後、西田の瑞泉寺住職となりました。自謙和尚が瑞泉寺の住職となった後、天保の大飢饉が村を襲いました。その時、自謙和尚は、村人に吉野葛の製法を伝え、飢えに苦しむ人々を救いました。この葛の製法は今に伝えられ、今も村人は冬の寒い中、雪の山に入り、葛の根を掘り、持ち帰って叩いてさらし、葛を作っています。この西田の葛は、一般には販売されていませんが、その美味なること有名です。松江の和菓子屋さんがこの葛を使って、「瑞泉」という和菓子を作っておられます。その和菓子屋さんは、何年かにわたり、葛を作っている現場に足を運び、じっと見ておられて「瑞泉」を作られたということです。また、西田の「ヨズクの里」では、事前予約をすれば、「葛がゆ定食」を作って貰えます。(事前予約。10人前以上。1人前1,000円。葛がゆ定食は粥だけでなく、西田の特産物や山野草を使った料理もあり、好評です。)さて、その瑞泉寺に、自謙和尚が住職の時、かの有名な「博多の仙崖さん」こと、仙崖義梵和尚がこられ、3年間も逗留なさったそうです。瑞泉寺は浄土真宗で、仙崖義梵和尚は禅宗の臨済宗です。当時の住職は自謙和尚でした。瑞泉寺は宗派を問わず、訪れる僧を迎えられたようです。仙崖さん(以下、愛称で書きます)は、博多でもそうだったようですが、ここ西田でも酒が飲みたくなると絵を描いてお金に換えておられたようです。瑞泉寺には、仙崖さんゆかりの品があります。  石見銀山ガイド公式ブログ「石見銀山通信」より
水上神社
水上神社本殿は平成25年12月に大田市有形文化財(建造物)に指定されました。 本殿指定にあわせて、神社に残る古文書や本殿造営に関わる棟札の一斉調査を行いました。本殿修理、拝殿建て替えにあわせ、その脇にある神楽殿も宝物館として建て替え、調査成果などを展示しています。「宝暦館」という名称は、本殿建立の宝暦11年(1761)年の和暦にちなんだもの。水上神社の歴史をはじめ、本殿の紹介や神楽面、神像などが展示されています。延喜式内社で、祭神は上津綿津美神 と上筒男神二柱(海を司る神様)  HP石見銀山ウォーキングミュージアムより
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水分神社と草摺の滝
水分神社は、貞観元年(859)に従五位下を授けられた安芸国水分天神の名残と考えられ、鎌倉時代には、八幡宮・総社・角振社(つのふりしゃ)などとともに国に年貢を納めなくてもよい免田が認められるなど、古い歴史をもつ神社である。水分には水配りの意味があり、府中地域の水の神としてまつられた神社で、旱魃の時には雨乞いの祈祷がたびたび行われたことが江戸時代の記録に残されている。草摺の滝は、水が幾重にも重なりながら落ちていく瀧の様子が鎧の草摺に似ているため、江戸時代の終わりごろ頼春水が名付けたと伝えられている。  府中教育委員会  現地説明板より
大山峠
日本書紀崇神天皇(3世紀後半)の条に「西道(にしのみち)」のことがあり、これは後の山陽道のことだといわれ、そうであればこの道もこの峠も弥生時代すでにあったことになる。その後、山陽道は京と筑紫大宰府を結ぶ官道になり、道路区分では大道で、この付近に延喜式にいう大山駅がおかれた。そしてこの道は、明治17年(1884)国道2号線が新設されるまで、国の幹線道路としての役割を果たしたのである。その間、九州へ派遣される防人もこの峠に立ったであろうし、元寇の急変を京へ知らせる早馬も駈け過ぎて行ったに違いない。また、明治維新の志士吉田松陰や高杉晋作らもここを通っているのである。その他多くの人々が希望や失望を胸にしながら越えていった峠で、その時代時代の歴史を見てきた重みをささえている峠でもある。それに多くの人々が詩歌や紀行文を残している峠でもある。万葉の詠み人しらずの歌もあれば、今川了俊が九州探題として下向時(応安四年(1371))に著した紀行文「道ゆきぶり」の中の一文「…今夜は高谷(たかや)というさとにとどまりぬ。又の日は、おほ山といふ山ぢこえ侍るに、紅葉かつがつ色付きわたりてははそ、柏などうつろひたり。日影だにもらぬ山中に谷川かなたこなたにながれめぐりて岩たたく音こころすずし。ふし木などのよこたはりつつ谷ふかき上をさながらみちにする所も侍り。」のようなものもある。西から上がってくる坂を「代官おろし」と呼ぶが、これは如何なる権威のある人でも駕籠から降りたという難所であることを意味し、峠より西10㍍の大山清水は、旅人の喉を潤した名高い名水であった。この位置には、江戸時代参勤交代の大名が休憩した憩亭(いこいてい)があったが、平素は村人が旅人に草鞋や炒り豆を売っていたという。  東広島市郷土史研究会 昭和58年4月吉日建  現地説明板より
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田の神様(たのかんさあ)
田の神様像は、旧薩摩藩領内だけに見られ、1500体以上見られます農耕や豊作の神様として、江戸時代の中頃の18世紀の初めから、農民や下級武士たちによって作られました。形は実に変化に富んでいますが、初めの頃は仏像や神像の姿でした。その後は次第に持ち物や表情も農民の姿の物も作られるようになりました。田の神様は、鹿児島弁で「タノカンサァ」と呼ばれ、決して崇ることをしない、豊作の神様として庶民に親しまれてきたのです。この像が建てられた江戸時代には、山裾の豊富な湧き水を使った水田で米を作っていました。  現地説明板より
岩山城
南北朝時代、黒瀬郷は地頭国人の新居氏が支配していたが、1404年に郷原修理亮清泰と名を変えて一揆契約をしており、現在の郷原町新林渡橋付近の土居に館を造り、岩山に郷原城の城を築城しました。郷原氏は、室町時代の初め頃に瀬野の阿曽沼氏と合戦しているが、1464年に山口の守護大名の大内氏に東広島・呉などの地域を領国され敗れている。胡神社近くの宝篋印塔群が郷原(新居)氏の墓である。その後、室町戦国時代に郷原を含む黒瀬郷は、大内氏の直轄領となり、大内方諸給人を置き、たたら製鉄を作らされて刀剣を中国に輸出され、大内氏は、大利益を得て山口を西の京都としている。従って、その頃の郷原の岩山城は、守護大名の大内氏の重要な山城であったが、1551年大内氏の家臣陶晴賢が武を忘れ文人生活にひたる主君大内義隆に謀反を起こし自刃させた。その頃に毛利元就は、陶氏に協力して大内義隆派の高屋の須崎城と八本松の槌山城を攻め落とし勢力を拡大した。その後陶氏は、毛利氏の芸州・備後の勢力拡大を拒んだ。そのため毛利氏は、陶氏と断交して、芸州の佐東・佐西を占領した。そのため陶氏は、芸州の東西条黒瀬衆を蜂起させ、郷原の岩山城に石見源之丞と、黒瀬町市飯田の海老根山城に房田万五郎を城主にして籠城させた。毛利元就は、天文23年(1554)10月に武将福間堯明を芸州の陶方の黒瀬衆の岩山城と海老根山城を占領するために行かせた。毛利軍は、まず千人余で市飯田の海老根山城の房田氏を攻略し、房田軍を先鋒させ、市飯田の舟港から船で黒瀬川を渡り空条万九郎先に上陸しシメノ松から岩山城二の丸を攻撃した。岩山城は、難攻の山城で、石見軍の約六百人余の兵で必死に抗戦したので、毛利軍がいくら攻めても攻めきれなかった。毛利元就は、娘婿の出羽氏を総大将とする援軍を参加させ、総勢約二千人余の軍勢により猛攻撃を開始した。毛利軍の福間勢はシメノ松から二の丸方面を、出羽勢は北側津江の田代から岩山城出丸搦手方面を攻撃開始したが、石見軍は徹底抗戦し三日三晩の激戦を繰り広げた。最後の10月24日、岩山城主石見源之丞はもはやこれまでと決死の突撃を行って、シメノ松で大激戦が行われ、石見源之丞は戦死、毛利軍大将福間彦十郎堯明も戦死、両軍の多くの者が戦死した。弟石見三之丞は、毛利軍出羽勢に出丸側から攻められ本丸で必死に抗戦したが、総攻撃をかけられ岩山城は炎上し落城し、三之丞は、西側方面に逃げたが、討ったが原で激戦となり、そして敵矢で負傷しつつ、逃げたが苗代境で追手に打たれた。合戦後、地元民がシメノ松原に松の石見源之丞の墓と石の千人塚が作られ弔われた。今でも山頂には、本丸、石塁、郭、井戸などの跡が残っております。毛利元就は、翌年に厳島合戦で陶晴賢を打ち破ったが、厳島神社が荒れ果てたので、郷原などの支配地を厳島神社領地として、現在の世界遺産の厳島神社本殿等を再建した。そのため、6年後に郷原に厳島神社を勧請され、江戸時代には村の氏神様であったが、明治4年(1871)に新堂平神社に改称された。岩山は、昭和の戦前までは、頂上では土器の破片、城跡では米、麦、ソバ等の焼灰が見られたが、太平洋戦争末期に頂上の本丸跡を改地し、高射砲陣地を設けられ多くの兵士がおった。又防空壕も設けらいていた。昭和55年(1975)に呉市文化財の名勝となったが、本丸の遺跡跡がなくなっており史跡にならなかった。このように古い歴史のある岩山は、その名のとおり大きな岩の山で、標高419.5m、小学校辺りから見る三角形の山姿は一番すばらしく、東側、西側から見たら台形となっており、頂上はかなり広い土地である。頂上から見る景色も最高であり、直下の郷原町は箱庭のように見え、南は呉市広町と瀬戸内海広湾、北は東広島市黒瀬町、東は野呂山、南は苗代町・熊野町方面が一望でき、典型的な山城であったことが伺える。頂上の展望台下側に長さ約14mの一際大きな巨岩に「火の用心」が書かれている。最初に書かれたのは、昭和4年(1939)で、太平洋戦争が勃発前に国家総動員法や警防団令により防空演習や勤労奉仕などの国策協力を行う末端組織として、郷原村でも消防組が「警防団」に改組され、火事水害の防災の他に防空任務も担い「マッチ一本、敵機の目標」、暗闇づくりとして燈火管制が行われたことから、村をあげて「火の用心」のために岩山に書かれたものである。その後は、昭和39年(1964)に「町内青年団」、昭和62年(1987)と平成28年(2016)に「郷原町を考える会」で「火の用心」が書き直されました。 2016年9月 郷原地方史研究会    岩山山頂の現地説明板より
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