月山富田城跡(がっさんとだじょうあと)
 
2人 2019.10.11 
道の駅「広瀬富田城」(10:45/51)→千畳平分岐(10:57)→千畳平(尼子神社)(11:02)→太鼓壇(山中鹿之助幸盛銅像)(11:05)→花ノ壇(11:09)→山中御殿(11:15)→親子観音(11:20)→山吹井戸(11:26)→三ノ丸(11:31)→二ノ丸(11:33)→本丸(11:38)→勝日高守神社(11:40)→西袖ヶ平(11:48)→山中御殿(12:00)→里道→起点(12:16)
軌跡図
  この地図は、国土地理院の地形図を利用したものである。     歩行時間:1時間24分、歩行距離:3.4㎞

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蒜山山行(10月10日)の帰りに月山富田城跡を訪ねた。道の駅「広瀬富田城」に車を置いて、御子守(おこもり)口より千畳平(せんじょうひら)へ。千畳平は、有事の際の城兵集合の場所として使われていたと云う。曲輪の西端に立ち、飯梨川の対岸の町並みや京羅木(きょうらぎ)・星上(ほしかみ)の連なりを眺める。思えばここに、永禄8年(1565)春から1年半にわたって月山富田城包囲網が展開したのだ。曲輪北端の尼子神社にお参りして太鼓壇へ。

道の駅「広瀬富田城」&安来市立歴史資料館(10:51)
千畳平分岐(10:57)

千畳平(11:00)

飯梨川左岸に広がる広瀬の街並み 千畳平より(11:01)
太鼓壇の鼓楼では、平素の時報や非常招集などの太鼓が、勇壮に打ち鳴らされていたと云う。現在は桜の名所で、山中鹿之助幸盛の没後400年を記念して昭和53年(1978)に、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈る銅像が建立されている。奥書院平を経て花の壇、山中御殿平(さんちゅうごてんなり)へ。花の壇には、発掘調査をもとに主屋と侍所が復元されている。広大な山中御殿平まで来ると、七曲りの道がいよいよ鮮明になる。山中御殿の呼名は、山麓の里御殿に対したもので、3,000㎡余りの二段構えの平地に御殿や付属の館があったと云う。月山軍用道から親子観音を経て七曲りに合流。七曲りは、主郭部へ上がる唯一の登城路。かつては、スギ林の中を石畳の道がジッグザッグに上がっていたが、平成26年度策定の「史跡富田城跡保存管理計画」及び「史跡富田城跡整備基本計画」に基づいて平成28年(2016)11月に、スギ林は皆伐され、コンクリート遊歩道に改修されている。なお、親子観音は、堀尾時代のものらしいが、その由緒はよく分かっていない。

太鼓壇の山中鹿之助銅像(11:05)

月山富田城山頂部 花ノ壇より(11:09)

月山富田城山頂部 山中御殿より(11:15)

親子観音(11:20)
主郭の三ノ丸から少し下ったところに、山吹井戸と呼ばれる泉あり。小さな小さな池で、水は湧き出しているが、これだけで数千の城兵の喉を潤すのは、とても叶うまい。西袖ヶ平を経て三ノ丸、二ノ丸、本丸と、南東に平坦な頂稜が伸び、月山のてっぺんに勝日高守神社(かつひたかもりじんじゃ)が建っている。三ノ丸跡に三角点、二ノ丸跡に休憩所、本丸跡に山中鹿之助幸盛の記念碑がある。いずれの曲輪もきれいに刈り払われた草地で、申し分のない憩いの園地。僕の場合、中海の彼方や独松山、京羅木・星上連山の眺めに心惹かれる。勝日高守神社は樹林に囲まれて、荘厳な雰囲気。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。藤原景清が保元(1156-1159)の時代に築いたこの城の鎮守社として崇敬庇護され、のちに尼子氏も篤く信仰したと伝えられている。

山吹井戸(11:26)

京羅木山 三ノ丸跡より(11:31)

二ノ丸跡に建つ休憩所(11:32)

中海、独松山など 二ノ丸跡より(11:33)

本丸跡の山中鹿之助幸盛記念碑(11:38)
勝日高守神社(11:42)
下山は、二ノ丸から横手道をたどり、西袖ヶ平経由で山中御殿平へ降りる。大手門跡から里道に出て起点に還り、道の駅「広瀬富田城」で割り子そばを食す。とても美味しかった。

月山富田城跡山麓部 西袖ヶ平より(11:48)

七曲りと呼ばれると登城路(12:00)